翻訳によるエイズ学習
性教育に関係した教育活動は、関係する各教科の授業やLHRの性教育の時間だけではなく日常的な教育活動の中でも展開できる。ここで報告するのは、卒業を直前にひかえた時期に、生徒と一緒にエイズに関する本の翻訳作業をしたというだけのものであるが、そこから自分自身が学んだことを紹介する。1990 年の文化祭で、担任した高校2年生のクラスで、今の社会問題に対する意見を、教師に負けない内容で発表しようということになった。文化祭まで少しくらい苦労しても、文化祭当日は、自由に楽しみたいということで、本の形にまとめようということになった。ジャンル別に分担し、各自がワープロで原稿を仕上げ、製本し、一冊の本にすることになった。具体的には、クラスを6つに分け、グループごとにテーマを決めて、原稿を共同で書き上げることを目標にした。
6月からテーマを決め、夏休みまでに資料を集め、夏休みに原稿を書き上げた。内容は、「臓器移植」「これからの女性のライフスタイル」「校則とは」「エイズ」「医療事情」「老人性痴呆症」などである。いろいろな本からの引用も多く、生徒の完全なオリジナルとはいえないものの、この取り組みを機会に、医療系の進路を考える生徒も出てきたりした。
このことをきっかけに1992 年度、さらに、高校3年生3 クラス約100 名全員で、エイズについての英語のペーパーバックを翻訳することを試みた。ニュージーランドへ中学生を引率した教師が買ってきてくれたSAFER SEX:WHAT YOU CAN DO TO AVOID AIDS を翻訳することになった。
英語の教師でも、医者でもない私と生徒との違いは、少しエイズや性教育の本を読んでいるというだけである。自分自身も作業のなかで、必要に応じて勉強し、知識を得て、学習していこうと思った。生徒と翻訳作業に取り組む活動で、生徒から性に関する用語についての質問を受けたり、楽しそうに取り組んでいる姿を見ていると、通常の授業にはない打ち解けた空気が流れているのを感じた。ほとんどの生徒が、大学受験を直前にひかえている時期であったが、「エイズについての洋書を読めば、英語力と知識の両方が得られるじゃないか」ということで、予想外に盛り上がった。父親と一緒に翻訳に取り組んだ生徒もいた。また英語の教師に質問した生徒もおり、関係するはめになった方々には大変お世話になった。
私たちが翻訳に取り組んだ本の原書が、翻訳されて出版されていた。日本での書名は『マジックジョンソンのエイズにかからない方法』(集英社)になっていた。
どうせ翻訳本がでるなら、何か月もかけて訳すことし、生徒と生物の教師でつくった直訳本も、読みにくいかもしれないが、本当にいいものができたと感じている。同じ曲でも演奏者が違えば、それぞれ違った印象を与えるように、原文は同じでも翻訳という作業の結果できた文章もまた、翻訳者の内面を反映するものだと思う。
例えば、集英社版では"bisexual" を「両刀づかい」と訳してあった。この言葉は、旧来の男性社会を背景としたものであり、バイセクシュアル(両性愛者)に対する蔑称である。決して高校生はそのようには訳さない。
エイズという、人間の性行動を介して感染する病気に関する本を翻訳するという作業を通して、お互いに「自分が性をどのようにとらえているのか」を確かめるような体験ができたと思う。そして、翻訳が終わって本が完成したとき、援助してくれた英語の先生から「性に関する用語に抵抗感があったが、ごく自然に話せるようになった」と言われた。性に関しては、社会的に抑圧されてきた面があり、猥褻な使い方をされることはあっても、正面から話題にされることはまだま
だ少ない。正面から扱うと道徳的な面が強調されやすく、聞く生徒の方も干渉されたくない気持ちを抱いてくる。エイズという社会問題を翻訳という共同作業を通して学ぶことによって、性に関する基礎的な学習ができたのではないかと思う。性教育は人権教育であり生き方教育でもあると考えている。