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授業「生命」での生き方教育(「大切なもの」をどのように伝えるか)

2024年6月25日

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『現代性教育研究月報』2005年8月号Vol.23.No.8・P1~5から抜粋
今から20年前にまとめた性教育の取り組みの実践報告です。近年の大人の新型鬱病の増加、中高校生の自殺の増加の背景には、物質的に豊かになり、情報社会になった今の社会であらためて「生きる意味の問いかけ」があると私は考えています。このような授業を学校で実施することが許されるのでしょうか。

 中学校では2002年度、高校では2003年度から学年進行で、「総合的な学習の時間」が実施されている。生徒が自ら学び自ら考える力や学び方やものの考え方などを身に付けさせ、問題を解決する資質や能力などを育むことを目的にするということであったが、文部科学省の義務教育に関する意識調査(2005)で「総合的な学習の時間」について、中学校の教員の過半数が否定的な評価をしていることが分かった。57%が「なくすべき」としている。否定する理由は、「基礎的・基本的な学習がおろそかになる」、「教科との連携が不十分で学力が身に着かない」など学力低下を懸念するものが多かった。
 また、高校の教員でも、ベネッセ総研の調査(2003)で、約6割が、否定的な評価であった。「生徒の個性が伸ばせる」という点について、「あまりそう思わない」と「全然そう思わない」を合わせると64.6%。「生徒が興味関心を持つ」に63%、「生徒に自ら考えさせる力をつける」に56%が否定的であった。そして、指導方法について、「どのようにやったらよいのかわからない」が69.7%であった。
 今、多くの教員が総合学習という新しい枠組みに対して、従来の教育観で捉え、不要論を唱える中で、私自身は、高等学校の「総合的な学習の時間」の枠は横断的な学習ができる点で、大きな可能性をもっていると考えている。そして、「性」を中心にすえた展開によって、人間関係の希薄化する社会で、「生きる力」を育てる教育が実践できるのではないかと考えた。今回は、「総合的な学習の時間」の導入に先駆けて、本校独自の自由選択科目「発展科目」(高2対象2単位)の枠の中で1999年度から開講している授業「生命」について報告したい。

何故、授業「生命」は誕生したか。
 最近、中学生だけでなく小学生による殺人事件が起こり、児童・生徒の心の問題が大きくクローズアップされるようになってきた。そして、社会的な危機感から、少年犯罪については、少年法第61条によって容疑者である少年の実名や写真を報道しないという原則があるにもかかわらず、インターネットによって罪を犯した少年の写真が公開されるなど、社会的な規範が問われる問題さえ起きている。また、加害者に被害者の心の痛みや肉体的な苦痛が理解できないという共通点が指摘され、その原因を家庭や人間関係に求められる場合も多い。
 しかし、児童・生徒は、一日の多くを学校で過ごし、また、学校を中心にした人間関係の中で生きている。学校生活が彼らの考え方や行動に大きな影響を及ぼしていることが事実だとしたら、この社会的現象について学校教育にまったく責任がないとはいえない。学校教育の社会的な役割を再点検し、時代の変化に対応した教育内容を考えることが社会的に要求されていると考えられる。私自身はこのような状況に対して、「生命」についての価値観を形成するために「生き方」を教育することが必要だと考え、授業「生命」を考えた。

授業「生命」はどのように進められているか。
 授業「生命」では、「性」についての知識を学ぶことから出発して、人には多様な考え方があることを認識し、最終的に生徒自身が「どのように生きるか」を再考することを目的にしている。具体的な手法は4つに分けられる。
 ①知識の習得を目指した「講義」(担当者以外に校外講師にも依頼)。
 ②グループ討議や心理テストなどによる「自己分析」。
 ③与えられた課題レポート作成のための「調査活動」。
 ④プレゼンテーションをするためのHTML形式での「課題レポート作成」である。各回の授業の感想は、e-mailで提出することになっている。
  授業の中核をなすのが「調査活動」で、正解のない課題に教師と生徒で調査や作業をしながら取り組み、共に考える過程を取り入れている。「知識をもった教師が生徒に一方的に教える」という今までの授業では、教師と生徒が興味を共有できるような授業ができないと考えた。知識中心の授業で「教科書に載っていないことは、勉強しなくてもいい」とか、「テストに出なければやらなくていい」という損得の基準で物事を考えるようになってしまっている生徒も多くなり、ボランティア活動でさえ、評価されるからやるという発想になってしまっている状況を打破するためには、生徒にとって魅力のあるテーマを今までの授業とは違う観点から考える必要がある。
  前期の「調査活動」の課題は「野外彫刻は猥褻か芸術か」である。野外彫刻の調査をテーマにしたきっかけは、「野外彫刻の設置が猥褻、あるいは女性蔑視につながる」とする意見に対して、自らの調査過程を踏まえて、最終的に女子高生としてどのような意見を持つか、私自身が知りたいという気持ちから出発した。授業は、次の①~④の順に進めている。
 ①野外実習:30名を5名ずつに分け、班毎に調査地域を分け、90分で往復できる調査計画を立て現地へ行き、1人1つの野外彫刻を見つけてデジタルカメラで撮影し、作者紹介などの掲示物や設置環境、感想を調査表に記録する。
 ②自分自身での調査:新たに自宅周辺や通学途上で見つけた野外彫刻を①と同じ方法で調査する。
 ③レポート作成:持ち帰った記録表からレポートを作成し、プレゼンテーション用にHTML形式のファイルを作成する。
 ④多様な立場の意見聴取:野外彫刻作者である彫刻家の意見と、野外彫刻から女性問題を考えている女性グループの方の意見を聞く。
 ⑤自分自身の意見:レポートに自分の最終的な意見を書き加えて完成させる。
 後期の課題は、「学校飼育動物は、生命尊重を考える教材になっているか」である。出身小学校に行って、動物の種類や飼育環境について調査し、ペットや飼育動物の死を考えるなどの考察を行っている。

授業「生命」で何を伝えたか。
 授業「生命」は開講して7年になるが、人気講座として定着してきている。「総合的な学習の時間」が設定される前の段階では、「そんな授業をして大学受験の邪魔にならないのか」などの意見があったが、私は「生き方」を考えることが、将来を考える動機となると考えた。事実、これまでに講座の内容そのものが直接的に進路につながった生徒も多い。
 「生き方」を教育するとは、「考え方」を一定の方向に導くというものではない。提示された材料(教育内容)を生徒自身が学んでいく過程で、「考え方」を身につけていくものである。したがって、この授業は、考える材料の提供(話題提供)の役割をするものであり、どのように考えるかの試行錯誤をどのように体験させるかが指導上重要になる。「生き方」を考える教育では、教科指導のように多くの知識を持った優位なものが劣位なものに一方的に教えるという図式は成り立たない。適切な材料を供給できるかどうかが大切で、指導する側がどのような経験をし、どのように生きてきたかという自らの生き方が問われることになる。
 授業「生命」は、調査活動を重視することにより、学習者は普段見過ごしている身近なところにもテーマがあることに気づき、課題解決のための情報収集をインターネットに依存することなく、自分の足で歩いてデータを得るという体験を通して、「どのように生きるか」について再考し、結果的に「性」について学習することができると感じている。授業「生命」で「性」を扱っているのは、「生き方」を考える上で、「性」の問題が重要だと考えたからである。

「性教育」はいつの時代にも必要とされている
 性教育の必要性については、これまで多くの調査で確認されてきたことである。「あなたは、性教育を積極的に進める必要があると思いますか」という問いに対して、山口県養護教員会の教員対象の調査(2002)で、小学校98.8%、中学校90.1%、高校83.5%が「必要である」と答えている。岡山県性協議会の教員対象の調査(1993)でも、97%、本校の調査(1996)でも96%が「必要である」と答えている。
 このように、性教育の必要性については、多くの教員が認めている。このことは、私が性教育に取り組み始めた1986年から変わらない。1990年代になって、エイズが社会的な問題になり、性教育の実践がマスコミにも取り上げられ、特に盛り上がった時期もあった。そして、1999年には文部省から「学校における性教育の考え方、進め方」が発行され、「学校、家庭、地域が実態に応じて、性教育を組織的かつ体系的に展開することが求められています。」という基本的な考えが示され、同年、「男女共同参画社会基本法」が公布・施行され、「男女の人権の尊重」、「社会における制度又は慣行についての配慮」などの5つの基本理念が示された。
 しかしながら、2002年に全国の中学生に「思春期のためのラブ&ボディBOOK」(母子衛生研究会作成)という小冊子を配付する計画がなされたが、配付直前になって、「ピルの勧めになる」「コンドームの使い方を中学生に教えるのはゆきすぎだ」などの意見が出され、結局、配付が中止になったり、2003年には、東京都立七生養護学校での性教育実践が、不適切と判断され、教職員を処分するという事件も起こっている。最近では、それらのことがきっかけとなり、「行き過ぎた性教育」ということでパッシングされている状況にある。また、国外に目を向けるとアメリカでは、禁欲教育の推進とあいまって性教育で扱う内容をめぐる議論が混沌としてきている。しかしながら、いろいろな問題を抱えながらも、今でも性教育が社会的に必要とされているのは事実である。

何が「性教育」を進めにくくしているか
 性教育は必要であるという意見がある一方で、なかなか進まないというのが、多くの教員のもっている思いではなかろうか。性教育が必要ないとする意見については、今も昔も変わらない。それは、「寝た子を起こすな」、「自然にわかる」というものである。例えば、 学校保健と連携して健康教育に取り組むために保健所がアンケートを実施しようとしたところ、「性交経験がありますか」「初めて性交をした動機は何ですか」「避妊しましたか」などの質問に対して、高校側が反発したケースがある。その主張は「生徒たちは純朴で素直であり、そんな生徒に『みんなこんなことをしているのか』と驚かせたり、性行動を助長するものは実施できない」というもので、「寝た子を起こすな」の発想である。
 日本での「行き過ぎた性教育」の批判とアメリカの禁欲教育の主張の共通点は、新しい社会の動き、考え方の変化を取り入れないということである。日本では、行き過ぎた性教育を「性器教育」「コンドーム教育」として、知らなくていい世代にまで教える必要はないと批判している。また、アメリカの禁欲主義教育では、性交に伴うリスクを減らす唯一の方法は、結婚まであらゆる性的活動において禁欲であり続けることであると推奨し、避妊については基本的事実も教えないとしている。
 確かに、性の知識は、年齢・発達段階を考えて教えるべきである。しかしながら、社会の変化の中で、教育内容も伝え方も変化することが当然あると考えなければならない。かつて、歴史上、軍事力を維持するために「事実があってもない」と教育したように、教育を、権力を守るための「体制を維持する装置」としてはならない。そして、体制を正当化するのに都合の良いように情報を歪曲することがあってはならない。
 アメリカの禁欲教育プログラムは政府の補助金を受けて実施されているが、その内容について、「連邦政府の補助金による禁欲教育プログラムの内容」という報告書(2004)で、その問題点が指摘されている。禁欲主義プログラムの80%以上に、「リプロダクティブ・ヘルスへの不正確な、誤解を招く、歪曲された情報が含まれていることを明らかにしている。例えば「『コンドームは性感染症の拡大防止に役立つ』という一般に見られる主張には、データの裏付けがない」や、「知的障害の主な原因である未熟児の出産は、最初の妊娠を人工中絶したことによって増加する」、「HIV感染の危険要因として汗や涙に触れることがある」などがある。また、「女性は『経済的支援』を必要とし、男性は『賞賛』を必要とする」にみられるようにステレオタイプの性別役割分業の観念が科学的事実として扱われているなど数多くの間違った内容が含まれている。避妊については基本的事実も扱わない。科学的に誤りを含んだ情報で警告することによって、性行動を抑える発想なのであろうか。「コンドームは、性感染症について十分に防止しない」というメッセージから、「コンドームは役に立たない」と理解したり、結婚まで禁欲することに価値を置くことによって、性的虐待を受けた生徒や、法的に結婚できない同性愛の生徒達が排除された気持ちになるとしたら、どうするのであろうか。このように性教育をめぐる社会状況は混沌としている。

学校教育での性教育はどのように進められるのか。
 これまでの学校教育は、全体としての規律や画一化が優先する集団指導に重点をおいたシステムで運営されてきた。それは、多くの生徒に、効率的に教育を提供する必要があったからである。教育を円滑にするには、集団を管理する必要がある。秩序を守らない、あるいは、自己主張する生徒は排除する必要があった。それは、社会でも一定のルールを守ることができなければ社会を乱すから、学校は社会適応させるために教育する役割があるという考えがある。1980年頃に校内暴力事件が多発し、教師に対する暴力事件が大きな社会問題となった時期があるが、運動場に整列させて生活検査をするなどの徹底した管理で対応した経緯がある。そこには秩序を求める教師と自己主張をする生徒との間でせめぎ合いがあった。
 今は、社会的に生徒の人権を考えた指導が求められる時代に変化してきている。その背景には、「リプロダクティブ、ヘルス/ライツ」を提起したカイロ国際人口会議(1994)、女性の地位向上の指針となる「行動綱領」が採択された北京女性会議(1995)、男女共同参画社会基本法の公布(1999)などに象徴される、女性の人権を守る社会的な大きな動きがある。日本では、旧来の性別役割分業の考えが一般化しており、教育現場でも、性行動では「女子高生の性の乱れ」と表現されるように女性の性経験ばかりに好奇の目を向け、中絶や望まない妊娠などで「傷つくのは女だけだ」といわれるように、男女で非対称的な意識の歪みが存在している。「男女共同参画」を進める動きは、社会の文脈の中に始まり、一定の理解の拡がりを見せている。それは、社会的に多くの人が共有できる必然性を認識したからこそであって、決して一部の推進する人たちがうるさく要求したからだけではない。このような流れに対して、「このままでは日本は滅びる」として旧来の価値観が滅びることが日本の破滅と考えて反対する人たちがいる。日本における「行き過ぎた性教育」批判、アメリカの禁欲教育の推進は、旧来の価値観を守ろうとするものである。
 教育に新しい局面が登場したとき、誰しも迷いがあり、拒絶する面がある。例えば、「情報」の授業が高等学校に導入される前の1997年に文部省が教員(小学校36校・451人,中学校10校・170人)に,「コンピュータ教育」の導入についてのアンケートを実施した。その中に「自分がコンピュータの研修をしてからでないと,生徒には使わせない方がいい」という意見に対する賛否を問うものがあったが,「そう思う」が40%,「そう思わない」が31%,「どちらとも言えない」が27%であった。賛成する意見の根底には,知識として「教員>子ども」でなければ,教材として扱わない方がいいと言う考え、つまり、「知識を持ったものが持たないものに教える」という従来の集団指導的な教育観の呪縛がある。
 確かに、性行動で「性交をしない」という選択は、リスクを避ける有効な方法である。しかし、思春期には急激な身体の性的発達に不安になったり、社会経験も少なく、性情報に翻弄されたりするので、性行動に走ったり、性被害にあうこともある。そのときにリスクを減らす教育が必要である。しかしながら、そのリスクを減らすための教育は、恐怖感などの外圧で行動を抑圧するものであってはならない。より正しいことを一方的に「与える」のではなく、どうするかを「自分で考える」過程が大切だと考えている。あふれる情報の中で、外圧ではなく、自分自身で理解し、考えて、「・・しない」と判断できる力を養うことが必要なのである。性教育は、教師自らが当事者として「どのように生きるか」を考える教育であり、「管理」する立場では生徒の自己決定力を育てることはできない。
 今、学校教育は新たな局面を迎えているのではないだろうか。「リプロダクティブ・ヘルス/ライツ」の流れが、時代の要請を受けたものだとしたら、多くの人の幸福に繋がるように、育てていかなければならないのではないか。授業「生命」の実践は、模索としての試みである。総合的な学習の時間の枠で、遠回りしたやり方かもしれないが、生きていく上で「大切なもの」が伝えられると考えている。

  • 投稿者 akiyama : 12:36

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