教育論文「"SEFER SEX"の翻訳によるエイズ学習」は1994年3月1日発行の『月刊高校生』3月号(高校出版)p38-45に、特集「社会・進路・人生を考える場をつくる実践」として掲載していただいた。30年前(私が30歳のとき)の教育実践になる。
授業の枠にとらわれたくない
学校という囲いのなかで暮らしている上、教える側と教えられる側という立場や、指導する側と指導される側という立場が存在することを当然のことのように受け入れ、疑わなくなってしまっている自分自身を感じる。
そして、このような上下関係のなかで、教師は、自分が教える内容を十分に修得しているか、せめて生徒より修得しているということで授業を成立させている。
しかしながら、よく考えると、修得しているという建て前も、多くの場合、もろく崩される危険性をはらんでいる。教科の授業でさえ、本当に生徒が何でも質問できる時間があり、生徒が授業に参加し、積極的に質問する気があれば、教師が行き語まる場面が出てくることは想定できる。
しかしながら、実際の高等学校では、そのような状態はなかなか起こらない。ほとんどの教師は教科書をこえない範囲で教え、生徒のほうも、教科書の範囲をこえないようわきまえた質問しかしない。
テレビでやった歴史的な社会問題の特集番組などを見せても、一心に教科書と問題集から目を離さない生徒もけっこういる。何が知るべき範囲かをす早く判断し、無駄なことはしないという行動である。物事の価値を効率化と経済性という座標だけで測れば、教科書の範囲をこえない姿勢はきわめて好ましいと言える。しかしながら、この効率的な授業を素直にすばらしいと認めるには疑問がある。指導事項があり、学習活動があらかじめ計画され、留意点も想定されたパターンの授業だけで本によいのだろうか、という気になってくる。
例えば、エイズが社会問題となり、1992年10月に、全国の高校生にパンフレット「AIDS正しい理解のために」が配布された。そして、教師にはrエイズに関する指導の手引きJが配布された。そのなかには保健・生物・ホームルームでの具体的な実践例が掲載されており、また指導事項、学習活動、留意事項がそれぞれ記述されている。
この本については、いままで問題視していなかった多くの教師にとっては、状況を知らせるだけでも役に立ったという点で、全面的に否定しない。けれども、「人権を教材とする社会科の展開例がない」とか、「コンドームについて適切に扱っていない」とか、いろいろな問題点があると指摘されている。
一度、原点に返って、生徒とともに学習するような、枠にとらわれない試みがあってもよいのではないかと患った。
生徒は一応、ホームルームの性教育の時間や生物、保健などの時間に学習し、エイズについてぼんやりとした知識は持っているはずである。教師から一・方的に説明するだけでなく、生徒が参加する試みを考えてみようと思った。
実践の発想と手順・経過
ここで紹介する試みは、何でもない翻訳という作業をクラスでやったというだけのものであるが、そこから自分且身学んだことを報告しようと思う。
1990年の文化祭で、担任していた高校二年生のクラスでは、いま社会的に問題となっていることに対する生徒の意見を、教師に負けない内容で主張しようということになった。
文化祭までは少々苦労しても、文化祭当日は自由にしていたいということで、ジャンル別に分けてワープロで打ち、製本し、一冊の本にする、ということでまとまった。具体的には、クラスを6つに分け、グループごとにテーマを決めて、原稿を共同で書き上げることを目標にした。
6月からテーマを決め、夏休みまでに資料を集め、夏休みに原稿を書き上げた。
8月末の一週間の補習授業期間にワープロ原稿を完成し、順番に並べた状態で製本所へ持っていった。
一冊の製本料約100円で依頼し、最終的には一二二ページの本が出来上がった。
内容は、「臓器移植」「これからの女性のライフスタイル」「音楽はどのようにして始まったか」「校則は」「エイズ」「医療事情」「老人性痴呆症」などである。
いろいろな本からの引用も多く、生徒の完全なオリジナルとは言えないものの、この取り組みを機会に、医療系の進路を考える生徒も出てきたりした。
このことをきっかけに1992年度、さらに、高校三年生の生物の授業のなかで、3クラス約100名全員で、英語のエイズについてのペーパーバックを翻訳することを試みた。
書店の洋書のコーナーをさがしたりしたが、なかなか適当なものが見つからなかった。
結局、夏休みに、ニュー-ジーランドやアメリカにホームステイに行く生徒や教師に、適当な本や資料があったら購入してもらうように頼んだ。そのなかから 『SAFER SEX(WHAT YOU CAN DO TO AVOID AIDS)」が選ばれた。
私自身、英語の教師でもなければ、エイズの研究者でもない。私と生徒の違いと言えば、少し生徒よりエイズや性教育についての本を読んでいるというだけだ。自分自身も作業のなかで知識を得、学習してみようと思った。
実施方法は、次のとおりである。
① 本文の約150ページを、生徒一人当たり1、2ページになるように、きりのいいところでパラグラフで切る。
② ルーズリーフを一人2枚ずつ配り、一枚に英文を貼り、一枚を翻訳用に使うように指示する。
③ 授業2時間を使って翻訳作業をする。
※翻訳する場合、自分の分担個所と前後の関係掛わからないと訳しにくいので、相互で相談して調整するように言っておく。
※特別な用語(専門用語や俗語)について意味がわからないときは、授業のなかで自由に質問する。
※翻訳のために辞書などで調べたメモは、そのまま残しておく。
④ 提出されたルーズリーフを綴じてまとめる。
⑧ 通読し、校正して用語を統一する。
⑥ ワープロで打ったのち、英語教師にも相談して校正する。
⑦ 印刷後、綴じることだけを製本所に依頼するので、折り込みなどの作業をする。
この活動のなかで、生徒から性にかかわる特殊な言葉についての質問を受けたり、楽しそうに取り組んでいる姿を見ていると、通常の授業にはない打ち解けた空気が流れているのを感じた。
ほとんどが大学受験を目の前にした三年生の時期であるが、「エイズについての洋書を読めば、英語力と知識の両方が得られるじゃないか」ということで、予想外に盛り上がったものになった。
父親と一緒に訳したという生徒もいた。また、英語科の教師に質問した生徒もおり、関係するはめになった方々には大変お世話になった。資料1は、翻訳後の生徒の感想(試験答案より)である。
製本所の方は、無理なお願いを引き受けてくださった。「印刷会社から製本所に依頼されることが多いので、一般の方は、製本会社という存在をあまり知らないのです。よく直接頼んでみようと思われましたね」と言われた。こちらのページの折り方が経で、「会社の名前があるから雑な仕事はできない」と、一緒に夜中まで手伝ってくださった完成した翻訳本は、卒業式の当日に生徒の手に渡った。
未来につながる学習体験とは
オーストラリアに留学した卒業生から手紙がきた。資料として、現地の新聞記事(資料3)が同封されていた。
「先日、オーストラリアの"The Sydney Morning Herald"という新聞のなかに一つの記事を見つけました。それは、日本の病院の血友病やエイズ患者に対する対応のしかたについて書かれたものですが、とてもひどいものだと思います。この記事を読んだホストのお母さん(日本人)は、日本の病院に対して憤慨し、また絶望していましたし、これを見た他の人々も同じように感じていると思います。
saturday.April 17,1993
Scanddalrocks Japan over AIDS cover-u.
For a decade ,Japanese blissfuly believed AIDS was a "gaigin" disease among dirty foreigners.
Now they are being shocked by some horrible medical truths.
(見出しとリード部分)
(エイズ隠しに関するスキャンダルが日本を揺るがせている.この10年間、幸せなことに日本人はエイズという病気は淫らな「外国人」の病気であると信じていた。ところが現在、日本人は恐ろしい医療の実態に衝撃を受けている)」
卒業して遠く離れたところに生活しているのに、私のことを覚えていてくれ、また私の取り組みがきっかけで輿喋を深めてくれて、うれしかった。
卒業していく生徒たちは、私たち教師よりもっと自由に、もっと大きな社会に出ていく者も多いだろう。日本とは違った文化のなかで過ごすことも、私たちの時代より多くなると患われる。
そんなときに本当に役立つことは何なのか。
それは、自分で解決したというささやかな体験だと思う。
教師自身も日常の枠組みを離れて、たまにはゲームのように生徒と一緒に、気楽に学習者の立場で授業を組み立ててみてはどうだろうか。そこにはきっと、授業する側にとって新鮮に感じられるものがあり、学習する側にとっては、本当に未来につながる学習体験があるような気がする。
何年かが経ち、どんな内容を学んだかは忘れても、学習したという体験だけは心の奥底のほうに生き残っている、そんな授業ができたらと思う。
言葉に反映される翻訳者の内面
私たちが翻訳に取り組んだ本の原書が、翻訳されて出版されていた(私たちが取り組んだ本は、ニュージランドで購入したオーストラリア版ということで、原書とは若干異なるところがある)。日本での書名は『マジックジョンソンのエイズにかからない方法』(集英社)になっている。
どうせ翻訳本が出るなら、何カ月もかけて訳すことは無駄だったのではないかという意見もあるかもしれない。
しかし「生徒と生物の教師でつくった直訳も、読みにくいかもしれないが、本当にいいものができたと感じている。
同じ曲でも演奏者が違えば、それぞれ違った印象を与えるように、原文は同じでも翻訳という作業の結果できた文章もまた、翻訳者の内面が反映するものだと思う。
例えば、集英社版では."bisexual"を「両刀づかい」と訳してあった。これは、バイセクシャル(両性愛着)への蔑称である。決して高校生はそのようには訳さない。また、昨年度までのエイズサーベランス委員会のエイズ発生状況報告の危険因子の欄に、「異性間性的接触」と 「男性同性愛」という言葉が並べてあった。前者は人間の一つの行為を表す言葉であり、後者はアイデンティティの一面を表す言葉である。
言葉にはいろいろな問題点が隠されている。逆に言えば、言葉には、本当に大切な気持ちを注ぎ込める可能性もある。学びながら、自分自身成長できたちと思う。
翻訳した本のなかに、次のような個所がある。
Many peoplehave been taught homosexualityis a sinfIf that has been ypur upbringlng, remember that the very same religlous teachings also tell us that we are all sinners and are obligated to give the same loving attention to others that would want for ourselves.
(同性愛は罪だと教えられた人たちがたくさんいます。あなたが子ども時代にしつけられたなら、それと同じ宗教の教えが、われわれはみな罪人であると言い、またわれわれのために他人に欲するごとく同じ愛を与えむようにしなさいと言っているのを思い出しなさい=生徒訳による)」
学校のなかでは、立場は違うことはあっても、人間として教師と生徒彗互いに人権を大切にする仲間でありたいと思う。