2021年10月1日(AFP=時事より)第2次世界大戦中、ナチス占領下のポーランドのStutthof強制収容所で、秘書として1万人以上の殺害をほう助した罪で起訴された96歳の女性Irmgard Furchnerが公判開始直前の9月30日に逃走を図ったが、数時間後に発見された。
数時間後に発見された。今でも、ナチスに関連した歴史に残る凶悪な組織的犯罪に関わった人物が裁かれていることを再認識させられた。全体主義を研究した政治哲学者ハンア・アーレントの著作の中の記述を思い出した。
『今こそアーレントを読み直す(仲正昌樹)』(講談社新書)p66-67より
アイヒマン(ナチス親衛隊の中佐で、ユダヤ人を強制収容所に移送し、管理する部門の実務管理者)問題に隕らず、一般的に言えることだが、ある重大な犯罪あるいは不祥事に関して、「あなたも同じことをやるかもしれない」と言われると、多くの人は、「そんなこと言われたら、実行した人間の責任追及をできなくなるでぱないか! 責任を曖昧にしたいのか!」と思って、感情的に反発する。そのように反発するのは、「前代未聞の悪いこと」をする人間には何らかの人格的欠陥があり、普通とは違う異常な判断。・振る舞いをすると想定しているからである。そうした想定によって、「問題になっている悪者」
と「この私」の違いを確認し、安心して悪者を糾弾できるようになるのである。
もし「私」と「悪者」の間に共通要素があるとすれば、「私」が「悪者」を糾弾している論理によって、いつか「私」自身も糾弾されることになるかもしれないので、不安になる。というより、糾弾している「私」の論理が、「私」自身にそのまま当てぱまってしまうかもしれない。そのことが分かっていて内心びくびくしているからこそ、「悪者」の「人格」の内に、(私のような)「普通の人間」には見られない悪-の根源"のようなものを見出そうとするのである。
また、そうした「悪の根源」追求は、その際立った「悪者」との対比を通して、「私たち」の正常なアイデンティティを確認し合うことにも繋がる。容赦なく「悪」を攻撃する姿勢を示す「私」たちは、健全な理性を持った「まともな人間」なのである。際立って異なっている「他者」との対比を通して、「私」あるいは「私たち」のアイデンティティを確認するというのは、まさにアーレントが『全体主義の起源』で論じた、全体主義が生成するメカニズムである。全体主義という、いわば。究極の悪"とも言うべきものを糾弾しようとする「私(たち)」の営みが、全体主義に似てくるというのは非常に皮肉な現象である。
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今の社会では、会社や学校でも、自分の意志で判断することなく、上司に命じられたままに役割を果たそうとする平凡な市民はいくらでも存在する。神戸高塚高校校門圧死事件が思い出される。1990年7月6日、兵庫県神戸市西区の兵庫県立神戸高塚高等学校で、同校の教諭が遅刻を取り締まることを目的として登校門限時刻に校門を閉鎖しようとしたところ、門限間際に校門をくぐろうとした女子生徒が門扉に頭を挟まれ圧潰されて、死亡した事件である。この高校は全教員による校門や通学路での指導が高く評価されて、全国で5校しかない「研究指定校」の一つで、そのことが逆に当時のブラック校則を浮き彫りにさせる形になった。罪に問われたのは教諭は自分に非は無いとして事件後に本を出版している。
命令されたから、"やった"に過ぎない行為だろうか。上司からの命令や慣習に従って、あまり意識することなく悪事をする。今の社会においても、集団での所属感を共有するために、悪意のある徹底したイジメを正義感すらもって行うことが職場や学校で起こっている。。「自由意思を持ち、自律的に生き、自らの意思で善を志向する主体」とする人間像は、偶像にしかすぎなのだろうか。