鳥には人間が作った境界線などありません。誰が所有する土地だろうが、山だろうが、渡り鳥であれば国境すら行動を制約することはありません。魚にも人間がつくった境界線などありません。回遊魚であれば、広い海を自由に泳ぎ回っています。
人間はどうでしょうか。大都市のど真ん中の交差点で、もし信号機がなかったらどうなるでしょうか。渋滞は必至で、車は身動きできないし、我先にという気持ちでイライラして事故が頻発するかもしれません。口々に「信号機をつけて欲しい」と言い出すでしょう。人間は、ルールがあるのが当たり前の社会に生きています。
学校という枠組みで毎日を過ごしていると、共通のレールの上を同じ目的に向かって走っている自分を感じてしまいます。確かに、学校では、「心身ともに健康な国民の育成」を目的に同じ十代の生徒が同じ机に向かい、同じ椅子に座っています。そして、設定された一定のルールを守って生活しています。しかし、同じ制服を着、同じ計画された時間で生活している生徒であっても、それぞれの制服の中に、自分の世界を持ちり、心の奥には将来に夢をもっていて、自分の可能性に挑戦したがっている人間がいるはずです。生徒は一日のほとんどの生活時間を学校で過ごしています。考え、悩み、喜び、楽しむ生活の場所なのです。だから、学校における教育(指導、忠告)は、生徒が将来の夢に向かって挑戦する気持ちを失わないように、個々が持った能力を最大限に伸ばす"糧"を提供することを目指さなくてはならないと考えています。
今年100歳を迎えた新聞記者むのたけじの著書『99歳一日一言』に、「忠告されたがらない人が多い。忠告したがる人が多い。お節介の九割は裏目に出る。」がありますが、学校は、生徒に学校教育を通して"忠告"ばかりしてきたのかもしれません。今年で10年目を迎える本校のSSHは、「女子生徒を理系進学支援」を旗印に掲げて、あなたがた生徒に対して、「課題研究では、"高校生らしい"ではなく、"本格的"な研究を目指せ」と、「研修旅行では"一生の記憶に残るような直接的な自然"を体験しなさい」と、いつも"忠告"を与え続けてきました。結果として、生命科学コースに入学しなかったら、科学研究への道を歩まなかっただろうなと考える生徒にとっては、生き方を変えたかもしれません。また、逆に高校生という早い段階で本格的に科学研究を体験して、自分には向いていないと結論したり、限界を感じて進路を変えた生徒がいたかもしれません。その評価は定まらないかもしれませんが、一部でも生き方に影響するようなことを起こしたのは事実だと認識しています。これまでの本校のSSH事業が成功だったかどうかは、どんな企画をたてたかとか、どれだけ多くの人を集めたとか、難関大学に多くの合格者をだしたとか、科学研究発表会で多くの賞を受賞したことではかれるのではなく、この事業によって直接的及び間接的にどれだけ多くの人の幸福に貢献したかではかられるものだと考えています。