湯川秀樹『旅人(湯川秀樹自伝)』角川文庫p150-151より引用
一人の人間が、調和のとれた状態を常に保ちつつ、成長できるものであろうか。いつの時代でも、あとから見ると、大きなアンバランスがあったと判定され得るのではないか。
第二次世界大戦後、日本の経済状態が険悪になり、幼児の中にさえ、世間の荒波をまともにかぶらねばならなかった者が少なくなかった。少年が、青年が、社会的関心を抱くようになったの.も当然である。
それにくらべれば、私の少年時代などは、少なくとも私個人にとっては、平和なものだった。親のすねをかじっていれば、学校には行けた。学生のアルバイトなどというものは、存在しなかった時代である。もっとも、現代の一部のハイ・ティーンに見られるような風俗の原型は、当時もなかったわけではない。堅実な家庭の親たちは、彼らを「不良」と呼んだ。不良少年、不良青年などという言葉が、よく使われたが、余り深刻なひびきを帯びていなかった。三高の学生の中にだって、その程度の不艮はいたはずである。
一方ではまた、自分たちの置かれている社会に対して、はげしい批判の目を向ける青年も、た一しかにいた。
彼らは、私よりはるかに大人であった。年齢的にいって、私は三高生の中の最年少ではあったが、性格的に見ても彼らは私より、社会に対する関心が強かったにちがいない。私の知らないことを、ずいぶん知っていたはずだ。私はそれをうらやましいとも思わなかった。私が、私のエネルギーをほとんど読書と、それにつながる思考の中にだけ注ぎこんだということは、たしかに人間としての成長過程では不調和なことであった。バランスのとれていない少年だった。この傾向は今も私の中に残っているが、私はそれを人間として立派なこととは思わない。が、もしこのアンバランスが私になかったら、どういうことになっていたろうか。私が物理学の研究者としては、割合早く一人前になれた理由の一つとして、この不調和な、かたよった人間形成が大いにカがあったのではなかろうか。
私は少年期から青年期に移るころの自分を、その年齢なりに円満な、調和のとれた人間だったと思うことは出来ない。が、私自身にとっては、それはむしろ幸運であったといえよう。
朝、学校にきて、傍らに置いてあった文庫本をパラパラとめくってみた。上の文章に出会った。
昔、聖書をパラパラとめくって、開いたページを読む習慣があった。偶然の中に自分自身に対する戒めやアドバイスを求めてやっていたのだと思う。今でも、このパラパラめくって、偶然遭遇したページを読んで、感慨に耽ることがある。この文章を読んで、僕が考えたことは、今の学校なら優秀な生徒を関与しないで自由にさせないということだ。教科書を離れた受験に直接関係のない組好きなことにじっく取り組むようなことはさせない。優秀な生徒には、目的(いい大学に入学する)に到達するための勉強だけを教えるのが王道になってしまっているのが現状だ。そして、多くの優秀な生徒がそれを受容して、正義感さえ持っている状況かもしれない。その価値観を学校教育の中心に据えて、すべての生徒にその入試対応への能力の優劣に基づく価値観を押し付けてきた。人間は心をもった生き物だということを忘れてしまっているのではないだろうか。
倉敷のノートルダム清心学園清心女子高等学校に勤務していた時に、「生命科学コース」を起案して、文部科学省SSH事業の援助を受けて開設したが、開設の動機の根っこには、「科学が好きな生徒が高校生段階で教科書を超えた範囲であっても好きなことに打ち込めるな環境を整備したい」という願いがあった。けっして科学研究での成果で入試を突破することを想定したり、優秀な子だけ選抜して入試対策をするために設定したのはない。科学研究を楽しんでくれた生徒に、自ら納得できる人生を見つけて欲しいと10年以上を経た今でも考えている。
湯川秀樹は、「一人の人間が、調和のとれた状態を常に保ちつつ、成長できるものであろうか」と問う。「みんな同じ」を大切な学校で設定された教科に、バランスよく取り組めない生徒の中に、隠させた能力を持っている可能性があることを無視してはならない。