佐藤学『学力を問い直す(学びのカリキュラムへ)』(2001岩波ブックレットNo.548)から抜粋
どんなに「学力低下」論が叫ばれようとも、また教育行政がどんなに「基礎学力の徹底」を推進しようとも、子どもたちは、もはや「東アジア型の教育」の復古主義的な「勉強」の世界に回帰することはないでしょう。「勉強」の時代はもう終わったのです。いくら「勉強」に打ち込んでも、もはや、その行く手に希望もなければ幸福もないことを、子どもたちは、時代に対する感受性によってよく知っています。そして子どもたちは「勉強」の世界から離別し、「学び」の世界を求めてさまよっています。時代の転換点を生きる子どもと若者の孤独と苦しみに、私たち大人はもっと想像力を働かせる必要があります。そしてこれまで「勉強」の世界をまるごと生きてきた親や教師が、子どもたちの未来に横たわる「学び」の世界を展望することは、さらに難しいということも厳しく自覚しなければなりません。
「勉強」の世界は、何とも出会わず誰とも出会わず自らとも出会わない世界であり、快楽よりも苦役を尊び、批判よりも従順を、創造よりも反復を重視する世界でした。「勉強」の世界は、将来のために現在を犠牲にする世界であり、その犠牲の代価を財産や地位や権力に求める世界でした。そして「勉強」の世界は、人と人の絆を断ち切り、人と人を競争に駆り立て、人と人を支配と従属の関係に追い込む世界でした。この世界の愚かさを、今の子どもたちはよく知っています。
それに対して、「学び」の世界は、対象と対話し、他者と対話し、自己と対話し続ける世界です。自己を内側から崩し、世界と確かな絆を編み直す世界です。自己に対する孤独な内省をとおして人々との連帯を築きあげる世界です。あるいは、見えない土地へ自らを飛翔させ、その見えない土地で起こっていることを足元で起こっていることと結びつける世界です。そして、自らの幸福のためだけではなく、自らの幸福につながる無数の他者との協同の幸福を探求し続ける世界です。このような「学び」の世界の入り口に、私たちは子どもと一緒にやっとたどりついたといっても過言ではありません。ここから先は、子どもに導かれ子どもとともに学びあうこと、その実践以外になすべきことはありません。
しかし、次代を担う子どもたちの学びを支援するために、大人の責任としてなすべきことはたくさんあります。たとえば、子どもたちが「学び」の世界へと向かうために、四〇人学級という学級定員は、直ちに改善されなければなりません。もはや教科書と黒板を中心に一斉授業を行い、机と椅子が一人ずつ離されて一方向に向かっている教室は地球上の一角(東アジアの国々)に見られるだけで、その他の地域では博物館に入っています。世界の教室は、小学校でも中学校でも高校でも、いくつかのテーブルを中心に組織され、本質的なテーマを中心に深く協同的に探究し学び合う場所へと変化しています。
2001年の佐藤学先生の小論である。ここ宮崎では、まだまだ「東南アジア型の教育」、「勉強」の世界が大手を振って歩いている。国がアクティブラーニングの推奨してもなかななか意識改革には結びつかない。SSH事業の成果で、課題研究の有効性が証明され、学習指導要領に科目として「理科課題研究」が設定されたがカリキュラムに組み入れた学校は圧倒的に少なかった。佐藤先生の2001年の時点での意見が、およそ20年を経た今になって、少し芽を出し始めている。