この学校に勤務する前に購入した本で、1981年5月10日第二刷発行とある。林竹二の教育の根底には「子どもはみんな勉強したがっている」と考えていることがある。林竹二は、自身の授業「人間」で、「授業は子どもの深いところに一つの事件が起きることだ」と考えるようになった。そして、そして今の学校教育について、次のように語っておられる。「もし私の授業に、子どもたちが、解放感と、めったにない楽しさを感じているとするならば、それは学校教育の現状が幸福なものではないことを物語るものだろう」、「学校教育の現実は、私が希望していたとはまさしく反対の方向に向かって急展開して、今では学校は"子どもたちが生きられない場所"になってしまった」と。35年もの歳月が流れて、学校教育はどうなったのだろうか。『問いつづけて 教育とはなんだろうか』は、学校教育の現場に本格的に踏み込む前に段階で出会った本で、私が考える教育の出発点でもある。1999年度から開講している授業「生命」もこの10年間取り組んできた女子の理系支援を旗印に取り組んできたSSH事業の根底に、この本の「教育とは何だろうか」がある。授業は、生徒が前向きに参加して「受けてよかった」と感じてもらえるものでなけれなならない。管理し、強制するものではない。校外学習や課題研究もやらされるものではない。そのように考えて、生命科学コースでは教育プログラムを開発してきた。
日本性教育協会の現代性教育研究月報2005年8月号に、「何故、授業生命は誕生したか」という見出しで、以下のように書かせていただいた。
最近、中学生だけでなく小学生による殺人事件が起こり、児童・生徒の心の問題が大きくクローズアップされるようになってきた。そして、社会的な危機感から、少年犯罪については、少年法第61条によって容疑者である少年の実名や写真を報道しないという原則があるにもかかわらず、インターネットによって罪を犯した少年の写真が公開されるなど、社会的な規範が問われる問題さえ起きている。また、加害者に被害者の心の痛みや肉体的な苦痛が理解できないという共通点が指摘され、その原因を家庭や人間関係に求められる場合も多い。しかし、児童・生徒は、一日の多くを学校で過ごし、また、学校を中心にした人間関係の中で生きている。学校生活が彼らの考え方や行動に大きな影響を及ぼしていることが事実だとしたら、この社会的現象について学校教育にまったく責任がないとはいえない。学校教育の社会的な役割を再点検し、時代の変化に対応した教育内容を考えることが社会的に要求されていると考えられる。私自身はこのような状況に対して、「生命」についての価値観を形成するために「生き方」を教育することが必要だと考え、授業「生命」を考えた。
これまで取り組んできた授業「生命」やSSH事業で生徒へ伝えてきたメッセージが、学校教育に携わっている教員に伝わって、「教育とは何だろうか」という自問につながってくれることを祈っている。