「棒棒鶏」って、中国料理で鶏肉をゆでて細く裂き,トウガラシなどの香辛料を加えた胡麻味噌(ごまみそ)のたれであえたものを言いますが、この学校に来たとき最初についたあだ名が、「ぼうぼうどり」でした。頭の毛が多くて立ちやすかったと、その問題を打開しようとパーマをかけたら、もっとひどい総立ちになったのが裏目に出てしまいました。「ぼうぼう」と毛が立っている印象をそのまま言葉にしたもので、当時日清食品から即席麺として「棒棒鶏」が販売されており、それを「ぼうぼうどり」と読んで、雰囲気と似ているという女子高校生の感性であだ名にされたのだと思います。当時、クラス運営がうまくいかなかったので、口ではうまく伝えられない自分の気持ちを文字で伝えようと学級通信「ぼうぼうどり」を発刊していました。以下は、赴任から5年後に書いた記事です。
『「ぼうぼうどり」から5年が過ぎて』 1978.7.16清心図書館報に掲載
二番目に言いたいことしか 人には言えない
一番言いたいことが 言えないもどかしさに
耐えられないから 絵を書くのかもしれない 歌をうたうのかも知れない
それが言えるような気がして 人が恋しいのかも知れない
出典:『風の旅』星野富弘より
この詩は群馬県で中学校の教師をしていて、クラブ活動中の事故で、手足の自由を失い、それ以後自宅で療養生活を続けている人によって書かれたものです。この詩は、私が去年まで続けていた学級通信に二回掲載されています。一回は1985年9月11日、そして、もう一回は1986年4月16日です。普通、学級通信というと、クラスの出来事とか、連絡事項とか、学校生活に関することが多いのですが、この通信は、自分の代弁者として存在していたように思います。したがって、先の詩を二回使った理由は、著者に対する同情とか尊敬からではなく、ただその時の自分の気持ちに一番近かったから使ったという以外に理由は.無かったのです。この詩の使い方に表されるように、今までの学級通信のファイルを読み返してみると、その時の気持ちをそのまま反映しているように感じてしまいます。
私が学級通信を初めて出したのは1983年7月13日、この学校に最初に勤めて、高校一年生を担任した時です。赴任してから三か月過ぎた頃、自分の考え方と生徒の考え方が正面からぶつかる状況が続いたことがありました。その時、それをなんとか解決したい、自分を理解して欲しいという気持ちから一号・二号の学級通信をだしたのを今でも憶えています。しかし、結果として、自分を理解されるどころか、自分が書いた通信がゴミ箱に捨ててある状況、つまり、まったく価値を認めないという返事が返ってきたのです。何日もかけて自分の伝えたいこと書いたのに判ってもらえない。そして、自分自身も理解させる力がないこと痛切に感じました。その後、通信はしばらく出しませんでした。そして、再度三学期には、とにかく捨てられても良いから、自分も楽しめる、つまり、自分が楽しみながら得たものの一部を紹介していくことも含めて始めることにしました。その時、次の文をつけて出しました。
=この通信をだすことへの弁解=
いままで二回〝ぼうぼうどりという通信をだしました。出した時の理由は、その時の自分が何かすべて自分が思うようにならない、なんとかしたい。そんな思いだったと思います。勝手と言えば勝手で、そのあげくに「もう、読まないから」といい意見を取り入れて止めてしまいました。自分自身の「どうせわかりっこないし」という気持ちも止めることを正当化していたと思います。でも、なにかしら、心の山奥の方で、これでいいのかなぁという気がして、やっぱり一度やろうと決めたことは最後まで試行錯誤しながらでもやらなければ、という気になったのです。担任がくじけているのに「生徒だけ、頑張れ!!」と言ってもやっぱり、どこかおかしい気がするし、これが最低の義務だと思うのです。
それ以後、学級通信を出すことを自分に課すことになりました。それから、1984年度「ゆにこーん」、1985年度「ぼうぼうどり」、1986年度「風の谷」、1987年度「なあなあ」(途中中断)と続けてきました。一年間に多いときは200号、少ないときは28号、内容は、気にいった詩、問題を投げかけてくれた新聞記事、本からの抜粋が中心で、その他学級での出来事、自分の感想といったものでした。ここで、何故気にいった詩、新聞記事、本の抜粋を中心にしたかというと次のような自分の考え方があるからです。
普通、学校であたえる授業の教材・同和教育・性教育の資料にしても何かしらのかたちでまとめや感想を要求するわけですが、それがあると、どうしても〝やらされる″という負担感をもってしまう。だから、べつに意識しなくていい、つまり″使い捨て〟の考える材料として学級通信を出したかったと言うことがあるのです。
私の考えですが、それぞれの人が持っている感受性とか考え方の多くは、意識されないでなんとなく過ごした時間の中でつくられてくるような気がするのです。生徒についてもほんとうに影響を及ぼすのは、計画された○○のH・Rの時間や教師の一過性の説教ではなく、学校全体を流れる雰囲気だ思うのです。
そして、私の読書遍歴は、その学級通信をだしていた五年間についてはその通信の中にすべて含まれてしまったのです。そして、自分の接してきた文章、詩などをどんどん紹介していきました。一つの文、一つの詩を具体的に決めていくとき、自分の気持ちが整理できるような気がして、作業を続けていきました。しかし、二年目に入り、毎日だすだけの資料が不足し出したのです。本当に納得したものがない状況になり、自分の読書が通信をだすためだけのものになってしまったの感じだしたのです。自分自身で蒔いた種ではありますが〝やらされる読書"としての負担を感じだしたのです。楽しんでだしていた時はまったく感じなかったものが、〝通信の為に読まなければ″という気持ちが出てくるとともに、読書そのものも嫌になってきたのですその年はとにかく200号だせましたが、次の年から毎日だすということが出来なくなりました。「とにかく、頑張りたい。」という気持ちでやってみましたが、結局6年目で止めました。
この学級通信の経験の中で、長い間感じることのなかった〝やらされる読書"を久しぶりに感じてしまったわけです。〝やらされる読書″といわれれば思い出すのが、読書感想文というのがあります。私は読書感想文というのが昔から嫌いです。何故嫌いかというと一つには、評価する側の期待を知らず知らずのうちに意識しながら読書しなければならないこと、もう一つには、感想を書くことのための材料を探しながら読むことで、心から楽しんで読むという状態から程遠いものになってしまうということです。そして、それらのことが〝やらされる読書"という負担感をあたえているように思うのです。〝したい″と〝やらされる" の間には大きな壁があります。ある人は〝やらされる″ことが、きっかけとなって〝する〟ようになるといいます。でも私には、読書感想文を書くことによって本を読むことが好きになった人より、そのことによって、読書に負担感をもった人の方が多いような気がします(それは、特にいろんな本と出会う機会のある学校に通う時期に)。そして、身に付けたものは、あらゆる感想に、評価する大人の側にこた えるかのように肯定的な記述を盛り込むことです。私としては、もっと自由に本と付き合って、読みたくないときは読まなくていいから、気ながに、ゆっくりと、楽しむ読書を大切にして欲しいと思います。そのことによって人と人の関わりにもっと面白い面を与えてくれると思います。