マーク・ローランズ著『哲学者とオオカミ』白水社より抜粋
「わたしはこれから、わたしたちの誰もがほとんどの面において、サルの魂をもっているということ を示そうと思う。(中略)
ここでわたしはサルを、わたしたちすべての中に多少ともはっきりと存在する、ある傾向のメタファーとして使う。(中略)「サル」とは、世界を道具の尺度で理解する傾向の具現化だ。物の価値を、それが自分に役に立つかどうかで測るのだ。サルとは、生きることの本質を、公算性を評価し、可能性を計算して、結果を自分につごうのよいように使うプロセスと見なす傾向の具現化だ。世界を資源、つまり自分の目的のために使うことのできる物の集合と見なすのだ。サルはこの原則を他のサルにも適用するだけでなく、さらには自然環境にある他者すべてに対しても同じように、いやそれ以上に適用する。
サルには友だちはいない。友の代りに、共謀者がいる。サルは他者を見やるのではなく、観察する。そして、観察している間じゅう、利用する機会をねらう。サルにとって生きるということは、攻撃する機会を待つということだ。他者との関係は常にたった一つの原則の上に、不変かつ容赦なく成り立っている。すなわち、おまえはわたしのために何ができるか、おまえにそれをしてもらうにはいくらかかるか、という原則だ。畢寛、他者に対するこうした見方は、自分にもはね返り、自分自身に対する見方にも影響をあたえる。そのため、自分の幸福についても、測定できる何か、量や質を測ることができて計算できる何かだと思うのだ。愛についても同じように考える。サルは人生で一番大切なものも、コスト・利益分析の視点から見るのである。」