今日の授業で、高校1年生に紹介した文章です。
誰もがひとはみんな勉強しなければならないことを知っていますが、それでいて勉強することにはみんな違和感を持っています。勉強することはひとの本能ではないからです。私たちは、覚悟を決めないと勉強に入っていくことはできません。勉強することは単に知識や学力を身につけることではなく、私たちの頭脳や身体を知的に組みかえていくことです。勉強する子どもたちは、多かれ少なかれ「自分」に挑戦しているのです。どんな子どもでもそうです。「私」が居て知識を身につけていくのではなく、知識を身につけて「私」自体が変容していくのが勉強なのです。
したがって、勉強するということは、まず私たちひとの生物性(自然のまま)を一度否定することと言えましょう。もちろん、ひとは身体(物質)でできていますので、その身体性(自然性)を消し去ることはできません。勉強は、その自然性を抑えて、文化的・知的な頭脳や身体に仕立て上げていくことを意味します。まず先に「私」(個人)があって、後からその「私」が知識を身につけていくのではありません。近代的な主体である「私」をつくるために、ひとの本能や自然性に逆らって、知的な身体に変えていくことなのです。
ひとは、生まれたままでは、生きることはできません。その「生まれたまま」を人類のつくり上げてきた「知」や文化で一度否定する必要があります。勉強するということは、いわば生まれたままの「自分」を否定して、社会的な「自己」をつくっていこうとする営みなのです。お金を出して知識を買うことではありません。「知」や法や習俗などによって「自分」を社会的な「私」(個人)に組みかえていくプロセスなのです。したがって、知的に成長しないありのままの「自分」や、今のままで居たい後退的な「自分」は、そこでは否定されることになります。
私たちの勉強への違和感は、ここに発しています。勉強は「ありのまま」の自分を否定するからです。
ひとのそれぞれの「この私」は、人類や社会の文化によって一度否定されることなしに、ひとになることや近代的個人(自己、「私」) になることはできないのです。近代的な個人になるために勉強は不可欠であり、勉強は個人が成長するためにあるのではなく、まだ個人になっていないひとの個体が個人になるためにあるのです。だから、本当は個人はまずそこに「居る」のではなく、勉強によってつくられる過程で「現れてくる」と言えましょう。
勉強は、現在の 「私」 を変えるためにあります。私たちがどこかで勉強に対する忌避の感覚を持っているのは、きっと、私たちの奥底にある「自然」(ありのまま)が変化することに反発しているからなのでしょう。
だから、仮にみなさんが勉強嫌いであったとしても、それが異常なこととか大変なこととか思う必要はまったくありません。かえって、勉強大好き!という人のほうが変だとも言えます。勉強嫌いであっても、我慢してやればいいのです。まったくやらないでは、近代を生きることはできません。やりたくない本音を胸に隠して、がんばればいいのです。
諏訪哲二『なぜ勉強させるのか・教育再生を根本から考える』(光文社)から抜粋(P248-250)