「君は毎日の学校がおもしろいか。日曜だの夏休みだのがきて、ほっとしないか。私も中学、高校、大学と学校生活を思いだして、たのしかったことは、みんな教室のそとでやったことばかりだ。学問がおもしろいのは、その研究がはてしなくひろがって、すすめばすすむほど、あたらしい景色のひろがってくるところにある。ところが、学校の時代におしえられるのは、学問の入り口だ。そういう知識は、学問の世界から切りとってきた一部分だ。それをまたこまかく区切って、おしえ、記憶させるのが学校の授業だから、おもしろいわけがない。そのうえ、学問とはあまり関係のないなぞときみたいな入学試験問題を、宿題でだされたり、塾でおしえられたりするのだから、学校がおもしろいはずがない。だが、目を転じておとなの世界をみるがいい。その社会というものが、はたして学校にくらべて、どれだけたのしいか。毎日、きまった時刻に起き、きまった時刻の満員電車にのって通勤し、きのうとおなじ作業をつづけなければならない人のはうがはるかにおおいではないか。結婚して家庭の主婦になったとしても、調理も洗たくも掃除も、毎日おなじことをくりかえしているではないか。みんなが力をだしあって、やっとささえているのがこの社会なのだから、誰もが朝から晩までたのしいというわけにいかぬ。学校の生活がおもしろくないのも、おとなになっておもしろくない社会の生活をするための準備だから、やむをえないところもある。しかし、おもしろくないところで、なにかおもしろいものをみつけることを、学校にいっているときからけいこしておかないといけない。それにはふたつの方法がある。ひとつは笑いを忘れないことだ。むきになってばかりいては、おもしろくない。笑えるだけのゆとりをいつも用意することだ。もうひとつは、強制される仕事のあいまに自分だけのたのしい世界をみつけることだ。自分にしかないものを生かせる世界をつくるといってもいい。学校にかよっている時代にこのふたつを身につけられたら、おとなになって社会にでたとき、きっと役にたつ。」
1984年の2年F組学級通信「UNICORN」の70号(7月2日)に掲載した松田道雄全集から引用した文章だ。この年は、特に気合いを入れて毎日、が旧通信を出していて、一学期だけで81号になった。あれから25年が経過したけど、気持は変わらない。