田崎和江(ベトナム、ホーチミン在住)先生からの便り
2010年4月30日はベトナム戦争の終戦記念日で休日です。ホーチミン市の公園には沢山の立て看板、赤の地に黄色の星の国旗、ベトナム戦争当時の写真パネルが道行く人々の足を止めています。枯葉剤で丸坊主となったジャングル、母と息子の再会、逃げまどう老人と子供、いずれも胸が痛くなる写真です。あれから35年。復興と発展の中にも、1975年に始まったベトナム戦争はあちこちに爪痕を残しています。4月30日の集会は昨年9月2日に行われたホーチミン没40回忌と同様の集会イベントが企画されていますが、デモ行進は禁止されているのでありません。
世界各国からのホーチミンやハノイへの工業進出は目覚ましく、あちこちに広大な工業団地と高層ビル、高速道路の建設が進んでいます。車とバイクの洪水にともなう大気汚染、工場廃水による河川汚染が進む中、確実に雇用は促進されています。特に、日本、アメリカ、中国、韓国の企業の進出がめざましく、それにともなってあちこちの語学学校は盛況です。第一外国語は英語、次が日本語です。英語は比較的簡単にどこでも学習できますが、日本語は指導者不足。卒業したての能力試験2級をとったベトナム人学生が、すぐに先生になり教え始めます。日本に行ったこともなく、周囲に日本人もおらず、彼らは日本語を話す機会もありません。
先日はドンナイ省ビエンフォア(ベトナム戦争が激しかったところ)の郊外で、マンションの一室で開かれている日本語勉強教室によばれました。80名の生徒が夕方6時から8時半まで学んでいますが、ほとんどが日本企業に勤めるベトナム人労働者でした。部屋には国旗、こいのぼり、風呂敷、のれんが掛かっていました。彼らにとって、私は初めて見る日本人女性(それも年とった?)です。恥ずかしそうに、少しの日本語、少しの英語、ベトナム語を交えて授業と交流会をしました。彼らにとって、日本企業に就職できたことは<Chanceであり、日本語の勉強にChallenge して、今の生活をよりよく Changeさせる>という3CHです。
ベトナム戦争直後、海外に渡った、いわゆるボートピープルはどうしているでしょうか。最近、日本とカナダに渡ったベトナム人3組にお会いしました。Aさんは40年前に留学先の日本にそのままとどまり、辛苦の末に日本企業に就職し、ベトナム支社の幹部として3-4年前にベトナムに戻ってきました。流暢な日本語で、日本人とベトナム人との考え方の違いをとうとうと語ってくださいました。Bさんは35年前に日本に渡り、言葉ができないので、食品や縫製の工場労働者として、時給600円から800円で働き、サービス残業も2時間して、やっと生活しています。母親の法事で5年ぶりにベトナムに一時帰国しました。独立した子供たちとも別居しているので<一人でとてもさびしい>と涙ながらに、たどたどしい日本語で話してくださいました。Cさんは日本人と結婚して、一族でカナダに渡りました。親戚は医者、薬剤師、薬局経営などめぐまれた職業について安定した生活を送っています。Cさんは7年ぶりに一時帰国しましたが、<老後はやはりベトナムでくらしたい>と言っておられました。
海外に渡らなかったベトナム人も就職は厳しく、学歴、技術、資格のない人は似たような職業を、少しでも給料の高いところをと転々とします。北のハノイより南のホーチミンの方に仕事があるということで、子供を年寄りに任せ、出稼ぎにきた夫婦は、道路工事現場の日雇い仕事を転々とします。入り口にドアーが一つだけあるコンクリートの長屋に住み、その部屋にも5-6人が寝泊まりしている状況です。最近、教育学部を卒業した女性が私の家に1カ月ほど滞在しました。教職をさがしましたが結局見つからず、物価の安い田舎で店員の仕事に就くと言って帰りました。日本も失業、ニート、派遣社員、パート、期限付きと厳しい状況ですが、ベトナムも世界不況の波の中にいます。しかし、最近、自家用飛行機を買った2名のベトナム人の金持ちが話題になりました。