金沢大学大学院自然科学研究科 教授 田崎和江(Kazue TAZAKI)の講演が実現しました。社会人として大学院で学んでいたときに、集中講義を受けてから6年が過ぎました。今回は、11月18日に清心女子高校の会議室で講演があります。女性科学者の道を歩む生徒が一人でも多くでることを期待しています。そして、僕自身も、元気に話す田崎先生からエネルギーをもらいたいです。
田崎先生の紹介
私はたいして有名でもない教員養成大学を卒業し、大学院には全く行っていません。卒業時にはすでに長女もいました。「大学院に行きたいので」と保育所に言ったところ、「保育所は働くお母さんのためにあるのです。大学院なんてとんでもない」とこっぴどくしかられました。1年間の東京都教諭の後、すぐに三朝温泉にある岡山大学温泉研究所の研究生になりました。当時、岡山大学には大学院もなく、独学で粘土鉱物学を勉強し、電子顕微鏡技術を修得しました。論文を2.3本書いたところで、地質学会研究奨励賞をいただきましたので、東京教育大学に学位論文を提出しました。すでに須藤俊男先生は退職されており、下田右助教授が私の論文を評価して下さいましたが、審査委員は全く別の先生でした。大学院に行っていないからという理由で3日間、専門の試験を5つと英語とドイツ語の試験が課されました。当時3~4歳の長女を連れ、出雲の寝台に二人で寝て、10回以上東京に通いましたが、なかなか論文を見ていただけませんでした。
何はともあれ、学位を手にし、論文もたくさん書いて、賞までいただいたので、何か研究職があるだろうと10以上の職に応募しましたが、学閥も人脈も何もない私はどこからも相手にされませんでした。岡山大学温泉研究所の研究生を10年間し、いよいよ35歳になろうとしている1980年に、「そんなに日本が私を必要としないならば世界があるさ」と思い、アメリカ、カナダ、ニュージーランド、イギリス、オーストラリアに手紙と論文別刷りを送りました。
すると、なんと全部の国からすぐに来なさいと返事が来たのです。その中で、一番、最初に返事をくれたカナダの客員研究員(ENSAC)に行くことにしました。そのとき、年齢制限の35歳までに、なんとあと2ヶ月しかありませんでした。
夫が、「一人でカナダに行き、思い切り研究してこい」と言ってくれたので、二人の子供を夫と母にお願いし、単身でカナダに渡りました。はじめの半年は英語が聞き取れず、鳴かず飛ばずの研究生活でしたが、夜、ESLのクラスに通ったところ英語も怖くなくなりました。私は昼間工場で働いて、夜、定時制高校に通って高校を卒業しましたので、夜学は全然つらくはなく、丈夫な身体に生んでくれた両親に感謝しました。カナダでは、地質調査所(カルガリー)、マッギル大学(モントリオール)、ウエスターン・オンタリオ大学(ロンドン・オンタリオ)で9年半研究しました。カナダ国内や国際学会で論文発表をすると、その場で、「うちの大学に来ないか」というオファーがありました。その間、モントリオールで三女を出産し、6歳まで一人で育てました。カナダの大学は保育所が完備されており、出産後の赤ん坊をすぐに預かってくれます。その間、日本の大学や研究所の公募にも10以上応募しましたが、全くダメでした。もう半年待って何も返事が来なかったら、カナダ国籍をとってカナダの研究職をと考え始めた頃、島根大学理学部で地球環境学のできる人を探しているという情報が入りました。そして、めでたく、44歳のときに三女を連れて日本に帰国しました。その頃、夫は愛媛大学に移っており、カナダと日本との距離よりは、はるかに近くなりましたが、家族は常に3、4ヶ所に分かれて住んでいました。
島根大学のポストはベビーブーム対策の臨時増募の職であり、「ずーっ」と助教授であることがわかりました。若い男性がどんどん教授になっていくのは面白くありません。そこで、金沢大学に初めて地球環境学講座ができ、教授の公募があることを知りました。もちろん、金沢大学には知り合いもいませんでしたが、49歳でチャレンジしましたところ、運良くホストに就くことができました。地元の新聞には、私が赴任する前に、「金沢大学理学部唯一の初の女性教授」という記事が出たそうです。子供三人は愛媛と島根に分け、私は単身で金沢に来ました。夫が定年退職後、金沢に来て、三女とも初めて同居しましたが、「自分のために勉強し、社会のために働きなさい」という言葉を残して、たった5年間の同居で夫はガンで他界しました。現在、長女は和歌山に、次女はオーストラリア・シドニーに、三女はベトナム・ホーチミンに、私は犬と二人(?)で金沢に暮らしています。