はじめに
岡山県内の私学では1996年頃から校名変更・共学化、公立では2001年度から入試制度の学区制の変更に先立っての教育課程変更などを含む「特色づくり」の試みが話題になるようになった。本校でも、独自に教育改革のためのプロジェクトチーム(1994年7月から1996年 8月)を組織し、これまでの教育内容の再検討を行い、新学習指導要領の改定が告示される直前の1998年度から教育課程を大きく改定した。そして、自由選択科目として高校の学習範囲を超えた内容を広範囲に学習する「発展科目」と、コンピュータとインターネットを取り入れた授業「国際情報」が誕生した。「従来の教科の枠を超えた授業は冒険的過ぎる」とか、「コンピュータ導入は受験指導の邪魔になる」という意見もあったが、新指導要領での「総合的な学習の時間」と「情報」の誕生が追い風になり、1998年度から年次移行で実施することが決定された。
2003年度から高校の教育課程に、今までの教科の枠を超えた内容が扱える「総合的な学習」が導入された。「生きる力」を育てるという視点で考えれば、「性」も大きなテーマになると考えたが、予想に反して「性」を中心に扱った取り組みが全国的に少ないのが現状である。今回は、「総合的な学習の時間」の導入に先駆けて、本校独自の自由選択科目「発展科目」の枠の中で1999年度から開講している授業「生命」について報告したい。
「発展科目」とは何か。
「発展科目」(2単位)は、複数の講座から生徒が自由に選択履修できる形で高校2年に設定している。講座は前後期に分けて実施しているが、開講する講座については、前年度に全教員に公募し、応募があった講座のシラバスを作成し、生徒が高校1年の2学期に各担当者の説明を聞いて選び、その結果に基づいて受講科目を決定している。2004年度は18講座提示して、14講座を開講した。
「発展科目」は、生徒が自分で選んだそれぞれのテーマでプレゼンテーション能力や情報収集能力及びレポート作成の能力、創作能力などを高めることを目指している。それらはテーマが変わっても応用できる能力であり、このような「生きる力」を育てることを「発展科目」の目的にしている。
何故、授業「生命」は誕生したか。
最近、中学生だけでなく小学生による殺人事件が起こり、児童・生徒の心の問題が大きくクローズアップされるようになってきた。そして、社会的な危機感から、少年犯罪については、少年法第61条によって容疑者である少年の実名や写真を報道しないという原則があるにもかかわらず、新しい通信手段であるインターネットによって罪を犯した少年の写真が公開されるなど、社会的な規範が問われる問題さえ起きている。また、真相に迫るための情報開示の社会的な要求がある状況で、加害者に被害者の心の痛みや肉体的な苦痛が理解できないという共通点が指摘され、その原因を家庭や人間関係に求められる場合も多い。児童・生徒は、一日の多くを学校で過ごし、また、学校を中心にした人間関係の中で生きている。そして、学校生活が彼らの考え方や行動に大きな影響を及ぼしていることが事実だとしたら、この社会的現象について学校教育にまったく責任がないとはいえない。学校教育の社会的な役割を再点検し、時代の変化に対応した教育内容を考えることが社会的に要求されていると考えられる。私自身はこのような状況に対して、「生命」についての価値観を形成するために「生き方」を教育することが必要だと考え、授業「生命」を考えた。
授業「生命」は開講して6年になるが、表1で示すように2004年度は、前期で該当学年の生徒の24%、後期で33%が第一希望に選択しており、人気講座として定着してきている。「総合的な学習」が設定される前の段階では、「そんな授業をして大学受験の邪魔にならないのか」などの意見があったが、私自身は「生き方」を考えることが、将来を考える動機を与えると考えた。事実、これまでに講座の内容そのものが直接的に進路につながった生徒も多い。今年、医学部に進学した卒業生が書いた高校の思い出の文章に「・・・なかでも発展科目は私の大好きな授業でした。発展科目では、数ある特色ある講座の中から自分の興味のある講座を選び受講することができます。私は『生命』の講座を受講しましたが、普段の授業では学べない臓器移植や薬、心の問題などについてより深く学び、考え・・進路を考えるときに大きな影響を与えた・・」とある。
「生き方」を教育するとは、「考え方」を一定の方向に導くというものではない。提示された材料(教育内容)を生徒自身が学んでいく過程で、「考え方」を身につけていくものである。したがって、この授業は、考える材料の提供(話題提供)の役割をするものであり、どのように考えるかの試行錯誤をどのように体験させるかが指導上重要になる。「生き方」を考える教育では、教科指導のようにより多くの知識を持った優位なものが劣位なものに一方的に教えるという図式は成り立たない。適切な材料を供給できるかどうかが大切で、指導する側がどのような経験をし、どのように生きてきたかという自らの生き方が問われることになる。
授業「生命」はどのように進められているか。
授業「生命」では、前期は「性」、後期は「心と身体」というテーマを設定して内容を構成している(表2)。「性」について学ぶことから出発して、人には多様な考え方があることを認識し、最終的に生徒自身が「どのように生きるか」を再考することを目的にしている。具体的な手法は4つに分けられる。①知識の習得を目指した「講義」(担当者以外に校外講師にも依頼)。②グループ討議や心理テストなどによる「自己分析」。③与えられた課題レポート作成のための「調査活動」。④プレゼンテーションをするためのHTML形式での「課題レポート作成」である。各回の授業の感想は、e- mailで提出することになっている。
授業の中核をなすのが「調査活動」で、正解のない課題に教師と生徒で調査や作業をしながら取り組み、共に考える過程を取り入れている。「知識をもった教師が生徒に一方的に教える」という今までの授業では、教師と生徒が興味を共有できるような授業ができないと考えた。知識中心の授業で「教科書に載っていないことは、勉強しなくてもいい」とか、「テストに出なければやらなくていい」という損得で物事を考えるような発想になってしまっている生徒も多くなり、ボランティア活動でさえ、評価されるからやるという損得の発想になってしまっている状況を打破するためには、生徒にとって魅力のあるテーマを今までの授業と違う発想で考える必要がある。
前期の「調査活動」の課題は「野外彫刻は猥褻か芸術か」である。野外彫刻の調査をテーマにしたきっかけは、「野外彫刻の設置が猥褻、あるいは女性蔑視につながる」とする意見に対して、自らの調査過程を踏まえて、最終的に女子高生としてどのような意見を持つか、私自身が知りたいという気持ちから出発した。授業では、受講者全員で、①野外実習:30名を5名ずつに分け、班毎に調査地域を分け、90分で往復できる調査計画を立て現地へ行き、1人1つの野外彫刻を見つけてデジタルカメラで撮影し、作者紹介などの掲示物や設置環境、感想を調査表に記録する。②自分自身での調査:新たに自宅周辺や通学途上で見つけた野外彫刻を①と同じ方法で調査する。③レポート作成:持ち帰った記録表からレポートを作成し、プレゼンテーション用に HTML形式のファイルを作成する。④多様な立場の意見聴取:野外彫刻作者である彫刻家の意見と、野外彫刻から女性問題を考えている女性グループの方の意見を聞く。⑤自分自身の意見:レポートに自分の最終的な意見を書き加えて完成させる。
後期の課題は、「学校飼育動物は、生命尊重を考える教材になっているか」である。出身小学校に行って、動物の種類や飼育環境について調査し、ペットや飼育動物の死を考えるなどの考察を行なっている。
調査活動を重視することにより、学習者は普段見過ごしている身近なところにも研究テーマがあることに気づき、課題解決のための情報収集をインターネットに依存することなく、自分の足で歩いてデータを得るという体験を通して、自らの性、つまり「女性」について再考し、「性」ついて学習することができると感じている。
「性」についての授業を展開する。
授業「生命」では、前後期に共通して「性」の知識を扱っている。それは「生き方」を考える上で、「性」の問題が重要だと考えたからである。性教育といえば、最近、中学生に必要な性の知識を与えるということで作成された「思春期のためのラブ&ボディBOOK」(母子衛生研究所)という冊子が話題になるなど、性教育の進め方についていろいろな場所で論議されている。高校3年生の性交体験者が4割を越し、未成年の中絶者が年々増えている状況を考えると、私自身は、避妊を教えることが性交をすすめると危惧するより、性の基礎知識を的確に与えることを優先することが必要であると考えている。
また、「女子高生の性の乱れ」と表現されるように女性の性経験ばかりに好奇の目を向け、中絶や望まない妊娠などで「傷つくのは女だけだ」といわれるように、性についての男女間の意識の歪みが存在することは、人権の問題であるとも考えられる。また、同性愛などの性的なマイノリティに対する偏見についても考えなければならない時代になっている。現代の非常に多様化した「生き方」を考えるとき、「性」と正面から向き合うことはどうしても避けられないとことであり、「性」を扱う教育(性教育)をもう一度見直す必要があると考えている。性教育の進め方が難しい時だからこそ、「生命」の授業で「性」を通しての生き方を考えていく機会が必要だと考えている。
なぜ、性教育が進められにくいのか
1993年に、岡山県性教育協議会で、教師に対して性教育についてのアンケートが行われた(図1)。調査されたのは、岡山県内の高等学校19校(476名)である。「高等教育において性についての指導が必要ですか」という質問に対して、「必要である」と答えた人が97%である。その理由について年齢別にみると、20・30代では39%が「自分を大切にして欲しい」が最も多く、次に「性道徳の低下」が23%であった。それに対して、40、50代では、「性道徳の低下」、「自分を大切にして欲しい」がそれぞれ31%、33%で、二つの理由がほぼ同じ割合をしめている。また、男女別にみると、男性では「性道徳の低下」が32%をしめるのに対して、女性では、「自分を大切にして欲しい」が50%をしめ、「性道徳の低下」は15%にしかならないのが特徴的である。
女性や若い世代の教師が「自分を大切にして欲しい」という、生徒への直接的な要望をあげているのに対して、男性や年齢が高い世代では、「性道徳の低下」という社会への影響を理由としてあげている。性教育についての考え方に性別や世代によって大きな違いがあることがわかる。
この結果の背景には、教育活動を個人の幸福に帰着させるものとするか、または社会に対する役割を果たすものとするか、という考え方の違いがある。前者は個人主義だととらえられるし、後者は個人を大切にする視点を欠いているととらえられることにもなる。性教育の必要性は多くの教師が認めているが、性別や世代によって求める方向が異なり、そのことが性教育を進めにくくしている。この授業で進めている「多様な考え方があることを知る」とうことは、生徒だけでなく、教師を含めた大人にも必要なことである。
情報教育との共通点がある。
この講座では、課題レポートを学校のホームページに公開している。ホームページは、自分が作った作品が公開されるということで、課題に取り組む意欲を高める役割を果たすと共に、情報発信をするときのルールを習得する機会として役立っている。また、授業の感想をe-mail で受け取るというようにインターネットを積極的に利用しているが、プライベートな感覚で書いているので、レポートで提出させるのに比べて、外向きでない高校生の姿を垣間見ることができる。学校でのインターネットの利用については、1998年頃から多くの学校でパソコンが導入され、「ポルノ、暴力、ドラッグなどの有害情報から生徒を守るということ」と、「未熟な生徒がどんな情報を発信するか判らないので、情報発信を管理しなければならない」ということが問題になった。その後、この数年間で学校だけでなく家庭にもインターネットが急速に普及し、今では、パソコンは情報収集のツールとしての利用が当たり前になった。そして、e-mailは、携帯電話の爆発的な普及により、高校生の9割以上が所持するプライベートな通常の通信手段になった。しかしながら、「校則では、携帯電話の所持の禁止になっているものの、ほとんどの生徒が実際には所持している」というようなダブルスタンダードな状況をつくっている。広く普及したからといって、インターネットが持つ根本的な問題が解決したわけではない。逆に、普及すればするほど問題(被害・加害)に巻き込まれる可能性が高まるというのが当たり前の論理である。だとすれば、それに対する教育が必要になってくるのは当然である。例えば、ホームページには放送的性質があり、そこから派生する問題については理解する必要がある。自らがホームページで情報発信する過程で、肖像権、著作権、人権の侵害などの加害的な問題を起こすかもしれないことを学習しておけば、自らの問題として身近に感じることができると考えられる。授業「生命」で、情報を発信する過程を組み込んだのは、情報発信のルールを生徒の活動の中で学べるからである。
最後に
時代の要請に応えた教育を目指して出発した授業「生命」は、単に目新しいものを取り入れた授業ではなく、時代が変わっても通用する「大切なもの」を求めて考えたものである。かつて「ブルセラ」という言葉で話題になったブルマーだが、1990年代になって、ブルマーの着用を嫌がる生徒が増加し、不満の対象になっていた。多くの学校でハーフパンツ等に変更されたり、規定を取りやめたりしている。1995年6月の時点で、調査した公立高校10校、私立高校6校のうち、ブルマーを義務づけているのは、公立高校1校、私立高校2校で全体で19%であった。今では、ブルマーを着用している高校生を見ることはない。ブルマーは、「女性は素足を見せるものではない」という時代には、女性の自由の証であったが、今ではセクハラにつながると言われるように変化したのである。その底流には、女性が「自立的に生きる」ことを獲得してきた歴史が流れていることに目を向けなければならない。教育現場を取りまく社会は日々変化している。学校教育も社会の変化に対応していかなければならない。対応することを「迎合する」と解し、個人主義で社会が滅びるという人がいるかもしれない。しかし、私はこれからは、個人が大切にされる時代であって欲しいと思っている。「自己肯定感をもって自立的に生きる」ことは、生徒にとってだけでなく、私自身を含めて大人の永遠の夢かもしれない。
参考文献
1) 性教育協議会:性に関するアンケート 集計.平成7年度研究集録.p47-50(1995)
2) 東京都幼稚園・章・中・高等学校性教育研究会 : 2002年調査 児童・生徒の性.学校図書(1993)
3) 秋山繁治:高等学校での性教育の実践と課題 (HRと教科での指導).全国性教育連絡協議会 第23回全国教育研究大会要項.p48-49(1993)
4) 秋山繁治:高等学校での性教育の実践と問題 点(ホームルーム担任として).日本性教育学会 第17回全国大会要項.p39-40(1986)
5) 秋山繁治:"SAFER SEX"の翻訳によるエイズ 学習.月刊高校生3月号.p38-45(1994)
6) 秋山繁治:エイズを学ぶ海外研修旅行.月刊 高校生6月号.p62-69(1995)
引用文献
7) 秋山繁治:性教育の日常的な実践と課題.清心中学校清心女子高等学校紀要.No.12.p1-31(1996)
8) 秋山繁治:清心中学校・清心女子高等学校の展望アンケート「西暦2000年に清心学園は何を提供できるか」から将来を考えるNo.13.p33-113(1999)