水到渠成(水到れば渠(みぞ)成る) 『禅林類聚(ぜんりんるいじゅう)19
もとは、中国の古詩に「学問の根深うして方(まさ)に道固し。功名の水到って自ら渠(みぞ)成る」とある中から、古人が「水到渠成」の四字を禅語に引用したものと思われます。原詩の意味は「学を積めば自然に道が修まり、永が流れ来ると、ひとりでに溝ができる」ということです。自然の理をいったものです。
また「水到渠成」を、力量のある師のもとには、自然に学徒が集まるの意味に用いることもあります。
水は、その性質ゆえに多くの宗教家や哲学者が取りあげています。禅語でもたびたび「水」に接します。この「水到渠成」の展開といってもいい句に「水深ければ波浪静かに、学広うLて語声低し」があります。水はまた〝仏のこころ″を象徴します。道歌の「雨あられ雪や氷とへだつれど とくればおなじ谷川の水」 にもこのことが感じられます。
黒田孝高(よしたか)(1604年没)は「如水(じょすい)」と号しました。彼は安土桃山時代の武将で、織田信長、つづいて豊臣秀吉に仕えています。武将であるとともに、秀吉の日本全国統一事業を助けて政治面でも重要な役割をつとめた大人物です。それだけに、人間指導の面でも苦労を積んでいます。毛利氏の高松城を水攻めにするかと思うと、熱心なキリスト教信者でもあります。この多様な性格の持ち主が「如水」と号したところに、一つの誓願があるようです。とくに彼の『永五則』は、現代にも多くの共鳴者があります。「指導とは、自ら行ずることである」との禅行にも通じるからでしょう。
1.自ら活動して、他を動かしむるは水なり。
2.つねに己れの進路を求めてやまざるは水なり。
3.障害にあいて激しくその勢力を百倍し得るは水なり。
4.自ら潔うして、他の汚濁を洗い、清濁あわせ容るる量あるは水なり。
5.洋々として大海を満たし、発しては雲となり、雨雪と変じ、霧と化す。凝ってほ玲瓏たる鏡となり、しかも、その性を失わざるほ水なり。
出典『禅語百選』松原泰道(祥伝社)1972年より