「男らしさ」「女らしさ」という性の社会的な側面、つまり、社会から男性としてみられているか、女性としてみられているかということをジェンダーという。アイデンティティは、「自分自身をどう定義するか」「どのような自分であるか」に対する答えと「自分がある」という感覚である。例えば、「日本人である」「教員である」と認めることであり、日本語では「同一性」、「自己認識」などと訳される。したがって、ジェンダー・アイデンティティ(gender identity)は、生物的な性別とは関係なく、社会的に「私は男である」とか「女である」と認めることである。日本語では、「性自認」「性同一性」と訳される。ジェンダー・アイデンティティは生得的要因と生後の養育や教育という社会的要因が関与して発達していく。
従来考えられてきた男女の性格の特徴に、①男の積極的攻撃性と女の消極的防御性、②男の自立性・支配性と女の依存性・融合的同調性、③男の現状打破性と女の現状維持性などがあげられている(間宮 1994)。このような見方がステレオタイプ化されて、男であれば「男らしさ」、女であれば「女らしさ」として社会的に期待されてきた。しかしながら、現在では、その考え方が男女差別につながっていると考えられている。単なる性別による「区別」であり、不当ではないという意見もあるかもしれないが、男らしさに振り分けられた「積極性がある」「決断力がある」「さばさばしている」などがリーダー的資質なのに対して、女らしさに振り分けられた「消極的である」「よく気が付く」「優しい」は補助的な立場の人に求められる資質であることを考えると偶然ではないことが理解できる。現在では、社会状況の変容とともに男女の能力や性格が接近し、多様化しているように感じられる。性格は、生得的条件と環境的条件によって形成されるもので、男女の差よりも、生育条件による個人差の方が大きいと考えるべきである。
能力の特性については「女は言語能力に優れており、男性は視覚・空間認識・数学的能力に優れている」とよくいわれるが本当だろうか。例えば、「男性は数学的能力に優れている」という根拠に、「数学が得意なものをあつめたら男の子が多かった」とか「男の子の方が数理的推理テストで高得点であった」など、それを立証する研究が多い。しかしながら、それが生物的背景に基づくかどうか検証するのはかなり難しい。それは性役割を強化している社会的な影響も考えられるからである。数学的能力の形成には、外部環境が影響する可能性は高い。例えば、高校で進路を考えるときに「女なのに理系なの」と言われるように、無意識的に女性には「理系に行かないように」という抑圧がかかっている場合は多い。そのことは、「世界の大学の物理学科の女性の割合」のデータが物語っている。日本では、女性が物理学の分野に進学するときに、周囲はどのように反応するだろうか。能力の形成にも、社会がどのような性役割を期待するかが影響していると考えられる。
このように性格や能力についての性差についてみていくと、今まで当然と考えていたことにも、今日問題とされている社会的なジェンダーによる差別が深く刻み込まれていることを理解することができる。ジェンダーによる差別の問題は自覚的に修正しないと解決しない。
これまでいろいろなレベルで、性を区分することを考えてきたが、別の座標軸で考えなければならない性に関わる問題がある。「性同一性障害」(GID:Gender Identity Disorder)と「同性愛」である。
「性同一性障害」とは、生物学的には完全な男性または女性として生まれながら、その生物的な性(身体の性)とジェンダー・アイデンティティ(性自認)が逆であり、そのことが苦悩や障害になっているこという。1998年に埼玉医科大で日本最初の性転換手術がおこなわれ、マスコミで話題になっった。「自分自身の性別に対する違和感が非常に強く、性別適合手術(一般的に性転換手術といわれている)をしなければ解決できないと考えている人を「トランス・セクシュアル」(TS:Transsexual)という。また、身体の性とは別の性自認をもつが、トランス・セクシュアルのように手術まで必要としない人を狭義の「トランスジェンダー」(TG:Transgender)、そして、外見や服装を身体とは別の性にしようとする人を「トランスヴェスタイト」(TV:Transvestite)という。他にも男でも女でもないと感じる人や、時によって性自認が変化する人もいる。ジェンダーに何らかの違和感をもつ人を総称して広義に「トランスジェンダー」という。
また、「同性愛」については、セクシュアル・オリエンテーション(Sexual Orientation:性的指向)の問題がある。動物では繁殖期が発情期であり、性行動は生殖目的という一点に絞られるが、ヒトの場合は、性的指向が生殖の相手ではない同性に向かうことがあるということである。男女の性をステレオタイプの枠にはめて、持っている生物的な性とは逆の行動をするように理解している場合があるが、同性愛者は生物学的な性と性自認が同一であり、性的対象として自分と同じ性の相手を求めている。つまり、「性的指向が同性である」ということが共通するだけで、行動様式は異性愛者がそうであるように多様である。同性愛者は、生殖を伴わない性は罪悪ととらえるキリスト教的な考え方から偏見と差別に苦しんできた歴史がある。HIV感染者としてエイズ予防を呼びかけるマジック・ジョンソンの次の話で同性愛を取り巻く状況が理解できる。
「あなたがHIVやエイズについて話すとき,取り上げられそうな問題の一つに同性愛の問題があります。あなたがたの多くは同性愛が異常であるとか,道徳的にみて悪いと信じるように育てられたかもしれません。実際は同性愛は性的に方向づけられているのであって,あなたが選ぶものではないのです。 そして,覚えておいて下さい。好き嫌いにかかわらず,あなたの子供は異性よりも同性にひきつけられると感じる人達がいる世界に住んでいるということを覚えておいて下さい。子供達にはハッキリした情報が必要です。子供達に正確な情報を与えて下さい。そして,その時あなたの価値観について話して下さい。この時期,子供はあなたの信念に対して異議を唱えるかもしれないことを理解しておいて下さい。 親が自分の子供が偶然ゲイやレズであったということで自分の子供を捨てるという時,言葉では言い表せないほど悲痛な思いにさせられる。もしゲイの子供がゲイであることはとにかく悪いことであるという教えを受けたなら,彼らはHIVを受けて当然の処罰の一種だと受けとめるし,彼ら自身や他人を保護しようとすることすらどうでもよくなるかもしれません。もちろん,あなたの価値観は,あなたの決めることです。この本は,同性愛についてあなたと議論するために書いているのではありません。同性愛は罪だと教えられた人達がたくさんいます。あなたがそのように子供時代にしつけられたなら,それと同じ宗教の教えが,我々は皆罪人であると言い,また我々のために他人に欲するごとく同じ愛を与えるようにしなさいと言っているのを思いだしなさい。宗教の指導者や信徒団がレズビアンやゲイについて徐々に支持するようになっていることも知るべきです。わたしがあなたにお願いしたいのは,我々は皆神の創造物であり,我々は皆,愛や同情を受けに値するという考えを,子供達に与えて欲しいということです。」(Johnson 1992)
最近ではテレビや映画などでも同性愛について扱ったものあり、それらの作品の中には、当事者が作成に協力しているものもでてきた。しかしながら、マスコミを通して流される同性愛者のイメージは、オネイ言葉や女装といった旧来の一面的なイメージで「性錯倒者」として描かれている場合が多く、社会の偏見は根深い。1991年に東京都による青年の家利用禁止の決定が同性愛者差別であるとして提訴する事件が起こっている。同性愛者は、自分の性について自分自身は認識しているが、それを公にしない、またはできないことを「クローゼット」といい、自分自身で自分の周囲や社会にそれを明かすことを「カムアウト」という。クローゼットの闇の中にうずくまって、告白できないというイメージが、彼らを取り巻く社会状況なのである。同性愛以外にも、インターセックス、性同一性障害などの性的マイノリティへの差別は実在しており、その理解をすすめる活動が必要である。