課題「性を考える・同性愛の視点から」
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■司会および授業者
秋山 繁治(あきやま しげはる)
清心女子高等学校教諭。生物担当。1998・1999年度は、「国際情報」というパソコンを使った授業、1999年からは、発展科目「生命」の授業を担当している。
■パネラー紹介
青樹 恭(あおき きょう):岡山市在住のフリーランス・ライター。
吉田重幸(よしだ しげゆき):P3(ピー・スリー)運営スタッフ。
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1.テーマの設定
清心女子高等学校の授業実践の説明と同性愛者からのメッセージを中心に進めていき、「同性愛の視点」から、男女二分化的な性のとらえ方について改めて考えることを目的にした。
2.清心女子高等学校の授業「生命」の説明
本校の「発展科目」は新学習指導要領の「総合的な学習の時間」と対応し、その先取りの形になっているが、本校独自の特色をもつ科目である。講座は前期(4月~9月)と後期(10月~3月)に分ける二期制を採用しており、2つの講座を選択することができる。「発展科目」は「選択科目」としての性格と従来の複数の教科を横断的に扱う「総合的」性格を併せ持ち、少人数のゼミ形式による生徒の主体的参加により、課題を見つける力、考える力、判断する力、解決する力を養うことに力点をおいている。そこで私は、「発展科目」を性教育にかかわるテーマを展開できる可能性が大きい科目ととらえ、「生命」という講座を開講している。
講座「生命」の授業では、最初の講義「多様な視点を考える」で、エイズ予防ポスターを提示して、どんな印象を受けるかを生徒たちに質問して、その後このポスターで指摘された問題点を解説したり、また船が沈没して遭難した5人をめぐるストーリー『若い女性と水夫』を各自で読み、登場人物に好感度の順位付けをした後、小グループに分かれて話し合って順位付けをする。これらの授業内容を通して、物事には色々な視点があることを生徒たちに理解させる授業を展開している。また、同性愛と性同一性障害との違いを学んだ後、実際に同性愛者を招いて話を聞いたり、街中などにある彫刻を調査して、彫刻における女性の裸体問題に触れた後、彫刻家から作品制作の思いをうかがうなど、講演会やフィールドワークなどの活動も取り入れている。具体的な展開は4つに分けられる。一つは、出産、性分化などについて性に関わる基礎知識の習得を目指した「講義」。それから、集団討議やエゴグラムによる「自己分析」。「調査活動」。そして、興味や関心があることに一心に取り組んでいる「人との出会い」で構成している。
「同性愛」については取り上げて3年目になるが、毎年、性にかかわる内容を8時間程度学習してから、同性愛者に講演していただいている。1年目、2年目は、今回のパネラーの青樹恭さん、2001年度は池田久美子(「先生のレズビアン宣言」の著者)さんに授業に協力していただいた(授業の様子をビデオで紹介した)。
3.パネラーからのメッセージ
青樹恭さんの話
『同性愛者であることは不幸?』
今回は、同性愛について知らないことによって誤解を受ける面があるので、自分自身が口を開くことによって同性愛についての理解が進むように話をしたい。
私自身は、小学生のときは、男性も女性も好きになる対象だと考えていた。男性と結婚し、子どももできたが、夫の暴力や経済的困難な生活が原因で拒食症になり、心身ともに疲れ果てて、10年間の結婚生活を捨てて、家出して岡山にたどり着いた。今では、ライターとして自立して生活できるようになったが、その生活の中で自分がレズビアンであるという意識が確立した。現在、レズビアンであることをカムアウトしているが、周囲の理解もあり円満に生活できるようになった。しかしながら、一方で私の周りには、カムアウトすることによって、家庭や仕事上に支障がおきたりすることを懸念してカムアウトできないでいる人も多い。
高校での授業を通して、高校生の段階でマスコミの影響などですでに同性愛者のイメージができあがっていることを感じた。つまり、レズビアンの場合は「男っぽい女」というような一面的なイメージでステレオタイプ的にとらえられていて、レズビアンであるということで社会的にレッテルを張られるようになってしまっている。マスコミの描き方やアダルトビデオの世界で、性的に活発で淫乱な存在として描かれている場合が多いので、「どんなセックスをするのか」とか興味本位に聞かれることが多いのもそのためだと思う。「異性愛者以外は“普通”ではない=“幸せ”になれない」と心のどこかで感じている人が多く、また、同性愛者のなかにも「自分が同性愛者であるから不幸」と感じている人がいるのは確かである。したがって、同性愛者が“普通”ではないことに気づいた時、同性愛者である可能性やそのアイデンティティを否定することも少なくない。レズビアンが、異性愛者と異なるのは、性的指向が異性である男性に向かないで、同性である女性に向かっているだけだと理解してもらいたい。
同性愛者に対して「カムアウトしないのは卑怯だ」という意見があるが、カムアウトしなければならないという圧力を同性愛者が感じる状況は好ましいものではなく、今の私のようにカムアウトできる人が声をだしていくのがいいのではないかと思っている。
『学校で授業をして感じたこと』
とりあえず楽しかった。40名程度のクラスでの授業だったので、生徒の表情を見ながら、話し手と聞き手の距離が近く感じられ、交流しながら授業を進めることができた。感想文から、生徒の素直な気持ちが覗え、興味盛んな年代を対象にしたセクシュアリティを扱った授業を展開できたことがうれしかった。
吉田重幸さんの話
『良いゲイ/悪いゲイ』
「差別」とは、殴られたり、陰口を言われたりするというように直接的な危害を加えられることだけではない。より大きな問題は存在を否定されることである。同性愛者については、同性愛者が存在しているという前提で世の中ができていないことが問題なのである。一般に「結婚は異性とするもの」で「同性とするものではない」と認識されているために、普通に交わされる言葉にも精神的に傷つけられることがある。日常会話の中で「結婚なさっているのですか」とか、さらに具体的に女性に対して「彼氏はいるのですか」とか、男性に対して「彼女はいるのですか」と質問される場合がある。このようなときに同性愛者はどのようの答えればよいのだろうか。自分が同性愛者であることを正直に答えることによって相手との関係が気まずくなることを心配して、自分自身に嘘をついて答えざるを得ないことも多いのである。自らのアイデンティティを否定せざるを得ない状況に追いやられるような社会であるということであるこそが、大きな差別なのである。
中学生(1970年代半ば)のときに同性が好きだということを認識していたが、ゲイについては、当時少女漫画で少年愛が肯定的に描かれていて、もてはやされていた時代だったので、幸い悪いイメージは持っていなかった。しかしながら、一方で実際に生活している社会では、侮蔑的に「オカマ」などの言葉が使われていて、笑いの対象として扱われていたので、口外できないと考えていた。「嫌らしい」、「恥ずかしいもの」、「汚いもの」と捉えられている「オカマ」を認められない自分がいた。同性愛について自ら理解するためにセクシュアリティについての翻訳本などを読むようになったが、女装をしたり、同性に対してアナルセックスなどの性的行為を欲求しているゲイは「悪いゲイ」と思っていた。1980年代のアメリカから流れてくる情報から、サンフランシスコのゲイ・パレードなどの社会運動に参加している社会人として立派なポストにある優秀なゲイの人々こそが「良いゲイ」だと思っていた。しかし、ここ5~9年の活動の中で、性同一性障害の人と出会ったり、性について当たり前のように自然に話すことができるようになっていくうちにすべてのゲイを肯定できるようになった。
最近では、講演などで話す機会をもつことがあるが、いろいろな反応があり、価値観の相違を見せつけられる。肯定的な意見として、例えば、「ゲイっていいですね」ということを言われる場合があるが、そのようなことを言われる人の根拠は、今までに講演などで出会ったゲイが、自分の意見をはっきり言える人であったり、芸術的センスがあったりしたことから、ゲイは基本的にそのような性質を持っていると考えられるということらしい。当事者が同性愛について話す場合、自分達のことを受け入れて欲しいという気持ちか強く、知ってもらうきっかけになると考えているので、「さわやか」で、「元気」で、「前向き」な生き方をしている自分を演じないといけないと思っている場合が多い。そして、そのような印象を与える素質を持った人が話に恵まれる機会が多いので、すべてのゲイがそのような性質を持っているような印象をもたれるのだと思う。しかしながら、それはポジティブな偏見で、ゲイにも異性愛の人と同じように、話すのが苦手な人や絵が下手な人など、いろいろな人がいる。
それから、ゲイに否定的な意見として「自然の摂理に反する」「神の摂理に反する」(生殖につながらない性関係はおかしい)といわれる場合があるが、誰しも自分たちの生活の中で、より便利な生活を求めるあまり、環境問題を引き起こすような自然の摂理に反するようなことをしている現実に気づいて欲しい。
また、「性の話ばっかりするのか」という批判もあるが、同性愛を理解していただくためには、性のあり方を通して差別的な扱いを受けているのだから、性について語らざるをえないのである。自分自身はこれからも同性愛のことを理解してもらうために、話ができるところには、積極的に出かけて話していこうと思っている。
『学校教育に対して感じること』
学校では、ホモネタが出てきても、自分も周囲に同調した態度をとらなければならないのは苦痛であった。仲のいい友達でも、性の話になると自分の殻に閉じこもって、相手に壁をつくらなければならないと感じていた。そのような生活を延々と続けていると自分を肯定できなくなる。大学時代までは、自分の紹介や自分史を語ることが負担になってしまって、辛い思いをした。今は、P3という「性のことを当たり前に話ができる」グループをつくって活動している。
4.まとめ
「同性愛者を理解しよう」という気持ちの輪を広げて欲しい。学校の授業でこの問題を取り上げるのは大変難しいと思われるが、性についてのマイノリティの人権問題を考えることによって、性についてより深く学ぶきっかけになると思う。最近、テレビ番組で、エイズや性同一性障害の問題を扱った番組が放送されるようになったが、興味を持ってみている生徒も多く、生き方を考える上で重要なテーマだと考えられる。性別にかかわらず生き方が多様化している現代社会で、自分の生き方を決める力(性的自己決定能力)を育てていくという視点での教育実践が必要とされている。