森の空気の中には何やら身体にいい物があるらしい。最近そんなものが流行りだして、自然だとか、環境だとかに関心が集まってきている。そんな自然ブームの中、日本の中で一番自然的ともいえる沖縄へ行ってきた。沖縄は、沖縄は・・・・暑かった。
常夏の島という異名のとおり、沖縄は10月だというのに真夏日だった。気温は30度前後。こんなに暑いとみんなおかしくなって、滝つぼへそろって落ちていく。でもそうやって滝にあたったり、冷たい石の上で静かに座っていると確かに身体によさそうな、何かがあるような気になる。滝つぼで泳ぎまくって岩に座ると、不思議に疲れが取れていくような気がする.森の中にあった広場に座って、目を閉じていると、どんなに腹が立っていても和いでくるような気持ちにさせるから不思議だ。本当に何か物質があるのかやしれない。でもそんな単純な理論で片付けられるような物でなく「気」だとかそんな一種の神がかり的な物が身体の中に入っていく、そんなイメージがある。人間てのは単純なもので、なんだかそうゆう体験をすると自然は偉大だ、とか素晴らしいだの思えるようになる。もしかしたらそんな所から「神様」とか宗教とか出来たのかもしれない。アイヌには、自然を神とする宗教があるという。カナダやシベリアのような、自然の強大な力を間近でかいま見ることの出来るところでは、自分たちの持つ宗教以外にその地方独自の考えをもっている。自然は驚異的である、という考えだ。日本の神道なんかも近いものがあるけれど、大きな石だとか、年老いた大木だとか、森、山などには神様がいるという考えが生まれたのにはそういう背景があるのだろう。
そもそも人間は自然の一部だ。だからだろう,体はやはり自然になじみやすくできているらしい。沖縄のセミの鳴き声は面白い。ファンファンファンといった,どこか機械的な音を発する種類がいる。遠くから聞くと踏み切りの音のように聞こえる時もあるのだと聞いた。街中でも森の中でも鳴いていたが、それに気がついたのは比較的後の方だった。
最初はぜんぜん気が付かない。言われてみたり,自主的に気が付いてみないと判らない。だけど一旦気が付いたらそのことに対してすごく敏感になる。勉強にもそんな傾向はあって、例えば数学でまったく知らなかったことを習ったとする。それでも一旦理解すれば,まるで知らなかった過去の自分なんて嘘であるかのようにそのことが頭に入ってくるだろう。公式なんて最初はまったく知らなかったはずなのに,後ではまるで手足のようにその公式を利用している。飲みこむとはそういうことで,理解するとはそういうことなのだ。その分脳神経が一本増えていくような感じがする。知識を頭に入れるのは脳神経を増やすことで,脳神経の増加に伴って考えだとか,知覚神経だとかそんなものが発展していくようだ。 自然の中でもまったくその通りで,耳につくセミの声に気づいた後は,その後ろに聞こえてくる鳥たちの鳴き声も聞きとれるようになった。小さな生き物に気がつくと,何気なく通っていた道に生物があふれだした。 別の言い方で言うと野生化したとか,野蛮になったとか。だけれど、野生の獣になれるならなってみたい。原始人にでもなれるならなっていたい。そうしてずっと森の中にいてみたい,本気でそう思う。
知識を得て動き出した神経が,老化して,鈍くなって無くなってしまうのほど悲しいことはない。初めて飛行機に乗ったこと。ハブの話を聞いた時。オオコウモリに噛まれたこと。サンゴが自主的に動く,移動すること。サンゴの白化現象の原因を知った時のこと。セミの鳴き方が変なこと。シーカヤックに乗った時。やんばるの森の中のこと。初めて,椰子の実を食べたこと。久々にぶちきれたこと。家に帰ってから。驚いて,面白いと思った。すごく印象に残った。この驚きの気持ちや,興味関心,発達した感覚神経はいつか薄れて消えてしまう。それは当たり前のことだけれど、どこか悲しく思う。あの日々の存在が薄れて消えていってしまうようだ。わたしは、あの日々を体験して何を得たのか。何を考え,感じたのか。発達した神経は何かを残せたろうか。わたしは,一体、何をできたのだろうか。
マングローブは、一塊の葉の中に必ず一枚、黄色い葉を含む。その葉をなめると、ほんのりと塩辛いという。根からくみ上げられた海水はこし取られ塩分はその葉にだけ集められる。マングローブが海のそばで生きていくために得た、真水を得る方法である。ある種のサンゴは一個体だけで成長し、1日1cm進む事ができる。その事を教えてくださった研究員の方は、自分がその事を発見したのだと楽しげに話しておられた。マングローブの秘密を知った人は、一体誰だったのだろう。そして何を思ったのだろう。サンゴの研究をしておられたあの人は、その事実を発見したとき、一体何を思ったのだろう。例えそれが世界的な大発見でなくとも、ほんのちょっとした事であっても、きっと嬉しいとか充実感とか、そんな事を感じていたはずだ。その感情はきっと今までの研究を満足させるものであったろう。何かを研究して、そして何かを発見する。それが、わたしの夢である。
グループ活動だとか,誰かと一緒に行動していると、時々それがすごくうざったくなる。たとえ、それが仲の良い友達であっても,気の合う仲間であっても,無性に存在が邪魔に感じることがある。1人で気の向くまま,好きなように行きたいのにそばに誰かがいるから思うようにやれないことがある。沖縄で色々なところに行った時も,あっちの岩場行きたいとか、そこの展示を見てきたいとか。やんばるの森の中を行ったときもそうだった。こういうのってやっぱ1人で行きたいと思うけれど,川沿いの岩に滑った時や滝つぼの中で足場がなくて溺れかけた時,他人がいなければ助からなかったろう。滑ったことを笑い話にすることも,滝つぼの話を楽しんで話すこともなかったろう。なにより先生だとか皆や「かっちゃん」だとかがいなかったらこんな体験はしていなかっただろう。1人の力はたくさんの人間の力にはかなわない。でもそのたくさんの人たちが1人の人間によって動くこともある。 力というのは不思議なもので、お互いに影響し合ってる。一人一人の考えることはその時毎で変化しつづけ,同じ事は一度としてない。その一人が他の誰かに影響を与えたら,その人もまた誰かに影響を与える。その人も同じ考えをすることは二度とないのだから、与える影響もまた同じではない。対象は人のこともあれば,他の生物のこともあるし,生物外であることもある。同じでない影響が与えられたら,同じでない反応が返ってくるだろう。そういう意味で,同じことは二度と起こりえないのだ。その二度と起こりえない状況の中で、楽しいと感じられる体験ができたことを幸運に思う。沖縄研修旅行は楽しかった。心からそう思えるのである。