中村桂子さんは、現在は大阪の生命誌研究所副所長をされていますが、僕が教師になったとき(15年前)に当時でも古かった雑誌に若い中村さん(当時は三菱化成生命科学研究所の研究員)のエッセイを見つけて、女子高生に紹介していました。本校は女子高で、英文・国文に生徒が多く、理系は少なかったので、これからは理系だといわんばかりに説教していたのを思い出します。僕も、出身は、理学部化学科ですが、大学院は発生生物学の研究室です。最近では、本当に生物学にスポットがあたってきた感じがします。昨日、片付けをしていたら、中村さんのエッセイを生徒用にプリントしたものが出てきました。雑誌は、文系と理系の接点に立ってという特集記事が組まれていて、その執筆者の一人が、中村さんでした。タイトルは「女だから、生命科学を」でした
女だから生命科学を JT生命誌研究館副館長・大阪大学教授 中村桂子
女子ばかりの高校でのんぴりと暮らしていたのに、大学へ入る時にたまたま理科系を選んだために、まわり中が男の子という環境の中へ放りこまれてしまった。そこで、最初に驚かされたのが担任の先生。担任といっでも、小学校のように毎日接触するわけではないが、なにか困ったことがあったら相談にのってくれる人としてあらわれたのは、まだ三十歳前の数学の先生だった。お世辞にも清潔とはいいがたいタオルを腰にぶら下げ、ボサボサ髪をかき上げながら、ちょっと照れ臭そうな様子で話をするその人は、失礼ながらどうみても頼りになるという風ではなかった。案の定、四月末にお互いが馴染になるためのクラス会を開こうとしたその日、「先生が月給を袋ごとなくして困っているそうだ」という情報が入り、皆で少しずつカンパをしようかということになった。数学の話をして、いる時とそれ以外の時とではまったくの別人、数学のみに生きているという感じで、男の人には面白い人がいるものだと感心したり驚いたりした。物理にも「エネルギー源は液体燃料だけで結構。これがもっとも効率のよい方法です」という内燃機関のような先生がいた。
針金のように細い体で黒板の前に立ち、聞きとるだけで疲れてしまうほどの早口で一時間半喋りまくるその様子は、これまた物理学がそのをま洋服を着ているという印象だった。クラスメートの中にも、語学の時間などまったく無視。「解析概論」と題された、私にはサッパリわからない本を楽しげに読んだり、難しそうな問題を解き合ったりしているのがいて圧倒された。とにかく理科系の勉強をしてみよう、そのうちなにか自分に向いたものがみつかるだろうくらいの意識で大学へ入ったところへ、続続そんな人達があらわれたものだから、これは自分とは別世界ではないかと思えた。そして、それまで楽しいお相手だった女の友人達と比べて男の人は少し違うな、理科系は男向きと言われでいるけれど、こういいう風にならないとダメなのかなと思った。専門を選ぶ入口での第一印象がそうであったために、いまだにその圧迫感を拭いきれないところがある。しかし、その後多くの人と接し、自分も少しは成長してみると、あの時驚かされたのはそれほど本質的なことではなかったらしい、 理科は男向きなどということはないとわかってきた。
理由は簡単、科学の勉強を始めてすばらしい女性科学者、技術者が大勢いることを知ったからだ。 実験科学者としては落ちこぼれの私など、着々とデータを積み重ねで男性顔負けの成果をあげている仲間の仕事ぶりにはただただ感心するばかだ。しかも、そういう人はたいてい女性としても魅力的とくる。確かに科学者・技術者の絶対数は少ない。けれどもそれは、これまでの社会の仕組みの中で女性が置かれいた位置、与えられてきた役割、それらすべてを総合した結果のあらわれにすぎない.これらの条件が変れば、事態はまったく違っていたかもしれない。いずれにしても、これからは教育の機会や仕事の選択の幅など、女性の自由度は増すだろうから、科学や技術を職業とする女性はふえていくに違いない。本質的な差はないことが証明されるのはそう遠くないと思う。
ところで、科学研究とそれに基づく技術がこれまでの路線で進んでいったとしても女性は充分活躍できるはずだが、これからはそれ以上に、女の果す役割は大きくなるように思う。 女性と科学・技術、その関わり合いが次の三つの意味でより深くなると思うからだ。
その第一は、社会の求める科学・技術の内容とそれの持つ意味が少しずつ変化していることと関係する。 これまでの技術は、学問としては物理や化学が主体であり、進歩・拡大を目的とするものだった。けれども、今や有限な資源・エネルギーに頼り、生き物である人間にとっての環境を守るという条件下での科学技術、自的としては調和が求められるようになった。発想を変えねばならないわけだ。ここでやや我田引水になるが、こうなると生物に眼を向けることが必要になる。太陽エネルギ-を利用し、百万を越える多くの種が網の目のように関係し合いながら物をつくり続けてきた生物.人間は基本的にはこの網の目の上に暮らしているのであり、これを巧みに利用していく他ない。そうはいっても、生物についての知識は充分でなく、また調和型の技術という考え方自体まだよくわからないところがある。男性にとっても新しい考え方が始まっているのだから、女性も同じスタートラインに立てる。しかも、子供を産み育てる役割をもつ女性が生き物に対して抱いている強い関心を生かすこどができる。
第二に、科学技術の目的、生活を豊かにするという言葉の中味の変化がある。これまでは、物質的豊かさを増すこと、これで物事は解決していたが、今や生活の質が問題になってきている。 健康、安全、生き甲斐、こういうものを守ったり、増したりすることが求められている。こうなると物一つ作るにしても、どんな生活をしたいのか、何が大切なのかを考えたうえでの生産が必要になる。科学者や技術者が生活について考えなければならなくなったわけだ。これまで生活に責任を持たされてきた女性が活躍する好機といえよう。
第三は、専門家によって開発された技術を社会はただ受け容れるだけというパターンは許されなくなってきたことである。 生活する人が科学技術をチェックする形ができてくるだろう。その時にわからないから嫌だでは事は進まない。技術と生活感覚とは常にに対立しているという状態はつまらない。私自身、生物、とくに遺伝子の勉強をしてよかったと思っているのは、遺伝という基本現象を科学的に理解できるようになったということだけではない。遺伝子のはたらきを知ることによって、生物を見る眼が違ってきた、それが大きいと思っている。以前はとくに生き物が好きではなかったが、最近は小さな生き物に親近感む持つようになった。科学的理解、これが生活感覚を支えるものとなり、また日常生活から科学技術へのフィードバックがかかる、そういうプラスの相互関係ができるはずだ、ささやかな経験からそう思う。ここでの主役は女性。これまで機会をとらえては女性と話し合ってきた感触から、専門家にはならずとも、理解して判断する能力と関心のある人は多いと思っている。
暮らしやすい国をつくっていくための科学技術、そうは言っても男性の世界ではこれがすぐに、技術立国、国際競争力、産業育成などという固くて難しい言葉につながる。それ重要なこと、夢のようなことばかり言っているわけにいかないことはよくわかる。でも 女性の立場としては、生活というおもりをぶち下げて、技術だけがムクムクふくらんだ技術立国にならないためのバランスの役割をしたいと思う。
女ほ感覚的、女の論理は飛躍する、だから科学や技術には向かないと言われ、自信に満ちた男性群の中にいるとなんだかそんな気もして時に気弱にもなる。しかし、少し図々しくなってきたのか、男性にはわからない利点だってあるのだとまた思い直して頑張ろうと思う。そんなことの繰り返しだ。