学校の将来について、学校訪問や地区会などでの情報収集を中心にして考えすぎると、展望のない、消極的なものになってしまいます。情報が、客観的な示唆なのか。無責任な放言なのかを見極めなければなりません。また、本校の職員でさえも、無責任な意見が多いのも気になります。個人的な利害から出発した言葉なのか、将来の理想に向けての忠告なのか。これも見極めなければなりません。プロジェクトのアンケートは、客観的なデータとして利用できるように実施したものです。本校のこれまでのやり方は、声の大きい一部の意見に惑わされすぎたような気がします。
本校のテーマは、次のような点にまとめられると思います。
1.宗教心を大切に育てること。
2.生徒の持つ神に与えられた素質を最大限に伸ばすこと。
3.公教育にない総合学園としての私学の立場で、特色ある充実した教育を与えること。
4.本校教師は、生徒により充実した教育が与えられるように自己研鑽につとめ、それ ぞれの役割をきちんと果たすこと。
1.について
現在の資本主義社会は、人間関係が孤立化し、個人主義になりやすい状況にあります。その中で、「宗教心」を大切にするということの重要性は増しているような気がします。ただし、ここでいうのはあくまで「宗教心」です。宗教が、躾教育という集団主義に利用されてはなりません。
ハンセン氏病患者や死を目前にした患者に直接手を触れたマザー・テレサや貧しい子ども達に教育を与えたジュリー・ビリアートの心を世界中の人が理解したら、人間に優しい、もっと素晴らしい世界になっていくと思うのです。「隣人愛」というテーマは、最も重要なテーマです。
職員会議で、頻繁に「いい生徒が欲しい」という言葉を聞きます。そのときに使われる「いい生徒」とは、学力が高い生徒と言うことです。私は「何をもっていい生徒なのでしょうか」と言いたいと思います。確かに、能力が高い生徒が「いい生徒」かもしれない。しかし、私は、「学ぶということに、謙虚さをもった生徒」が本当に「いい生徒」だと思っています。そして、そのような生徒に育ってくれたらと思い、教師をしています。私自身も、学ぶことに謙虚であろうと思います。学ぶことに謙虚であることが、生涯ずっと学ぶことを続けることができる素養になっていくのだと思っています。
私が出会った、素晴らしい先生方は、虚栄心で威張るのではなく、親切すぎるぐらい知識を与えて下さり、研究する姿勢を教えて下さった方々です。受験だけに目標を置くのではなく、どのような大人になってもらいたいかを考えた教育が必要です。受験教育を中心に考えることは、利己的な発展の求める企業の発想です。発展を求めすぎるた歪んだ企業の思想で学校を考えてはなりません。現代社会は、企業も利益を公共の福祉や労働者の幸福に還元していかなければならない社会です。
「宗教心」を大切にて、隣人愛を持ち、公共の福祉を考えることは大切なことです。しかしながら、だからといって、教科の授業でも、ボラティア活動や教会の活動の紹介をしていたのではいけません。教師は、教科の授業をする際は、自分の担当した教科を学ぶ楽しさを教え、生徒の興味を引き出すように心がけなければなりません。教科の授業をボランティアの内容に振り替えたり、生活指導に切り替えるような行為は、授業担当者として認められるものではありません。
2.については、神に与えられた生徒の能力を最大限伸ばす立場で教育しなければならない。生徒の能力を裁く立場で考えるのではなく、どのように伸ばしていくかを、試行錯誤しながら教育実践していくのが教師の立場です。入試等で、推薦に適した生活態度をしているかどうかを裁くような場面にがありますが、「問題がある」とレッテルを貼って除外するのではなく、一定の条件を満たせば、社会的に認められるのに適した人物に育てていくという立場で議論がされなければなりません。
3.について、本学園は、幼稚園や小学校・中学校・高校・大学がある総合学園として理解されています。そして、関連のある一貫した教育理念と教育システムがあるように思われていますが、現実には存在しません。大学には、児童学科などもあり教育の専門の先生もおられるのだから、大学の先生を招いて、公開研究授業や教育研究会などを開いて教師自身が研修したり、保護者と教育を考えたりという機会があってもよいし、小・中・高・大合同教育研究所を作り、教育実践を報告していけるような体制があってもよいと思われます。また、各県公立学校や私立高校では、大学院への内地留学を認めている場合が多いのも事実です。人事異動のない本校のような学校では、教育情報から鎖国状態になりやすく、また、授業研究もマンネリになりやすい。教員の研修システムを考えなければなりません。
4.について、私立学校は異動も少なく。限られた人間関係で構成され、利害関係が継続するため、互いの中傷などが多くなる傾向があります。そのため、大きな教育改革など、協調的に取り組むことはかなりの困難があります。納得させる覚悟と責任をとる勇気がいります。また、教師は継続して長く勤務しているので、互いに仕事で関係をもつ機会は多く、また期間も長いのですが、一般に人間関係は希薄でそれぞれが孤立化しています。総じて、エゴイズムに陥りやすい状況にあります。
また、年齢構成や能力の上の都合で、ある個人に特定して過酷になることがあり、孤立化の中で、精神的な疾病にもつながる要素があります。公立学校のように、高齢になると、一線から退き、後輩を見守るという雰囲気はなく、高齢者の言葉は「舅姑的」であり、抽象的に「管理者」や「学校」、他の教師に対する誹謗中傷が多く、発展的は考えはません。また、新任者も、1年目から、抽象化された「学校」を批判する傾向が強く。非常勤でつとめる立場の人にも、本校の根幹に関わる情報が漏れ、学校批判される場合があります。総じて、バラバラの状態で、年齢・経験の違う各々教師自身が役割を果たせていない状況です。