インターネットでの情報発信は、機材の準備と通信の接続条件が整えば、誰でも、即座に、世界に向けて情報が公開できる。猥褻な情報が公開されることが話題になっているが、教育の中でインターネットを利用する場合の、むしろ、青少年への猥褻物陳列ということではなく、情報の公開に対する責任の問題がと思う。新聞への投稿であれば、編集者が掲載の是非を判断するし、本の出版であれば、出版社のスタッフの検討が必要であろう。これまで、社会に広く情報を発信する場合は必ず第三者の確認があったはずである。ところが、インターネットは、ファイルを転送するのは個人で、転送されたファイルはすぐに、公共性を持った情報の広場に掲示されるのである。例えば、ドイツではナチス肯定の情報をさせないという規制があるが、インターネット上で規制できないままに情報が流入してくることが話題になったことがある。国家間だけでなく個人に関係するレベルでも問題がある、規制がなければ、一方的な個人批判やプライバシーの侵害などにつながる情報が、公開される危険があるともいえるのである。このようなことを考えると、通信情報を規制する方向にどうしても傾きやすい。しかしながら、逆の面もあるのである。インターネットで通信できるから、情報から隔離され、抑圧された人々へ情報をながすことが可能であったり、また、公開された情報を得て、それを材料に民主化や社会改革、教育改革などに役立てる可能性もあるのである。情報公開をルールで規制するのではなく、責任を持って自己決定する能力を育てる教育が大切であると思う。