私が今勤めていいる高等学校に赴任したのは,全国的に中学校の校内暴力が話題になっていた頃の1983年である。最初は高校1年生の担任であった。高等学校の教育現場でも,生徒に対する一律の生徒指導が行われ始めた時期である。このような状況の中で,LHRの時間があっても,生徒と打ち解けた関係がなかなかできず,意見交換があるような運営はできなかった。入学してくる生徒の中には,教師からの言葉に対して嫌悪感を示し,干渉・強制と受けとめて反発する態度をしめす生徒もいた。
私自身が過ごした高校生活は,学園紛争も沈静化した時期で,学校生活は自由であった。「修学旅行は,3コース設定され,友達とグループをつくり希望の場所へいく」とか「制帽は廃止する」など,今考えても,生徒にかなりの自治を任されていた。また,逆にいえば,個人主義であり,三無主義(無気力・無関心・無感動)といわれた頃である。私自身が生徒指導で厳しく指導された経験をもっていない。
私が最初に感じたのは,教師側が生徒に対して要求したり,強制したりすることがあまりにも多すぎるのではないかということである。同和教育や性教育のLHRで,映画を鑑賞しても,本を読んでも,最後にまとめや感想を"書かせる"という形になる。制服の着方,式典での礼の仕方,朝のあいさつなど」,どうしても"やらされる"という負担感を生じさせる場面が多すぎるのではないかと感じられるのである。自分の意見を伝えたいが, "聞かせる"とか,"静かにさせる"とかが,さらに溝を広げるのではないかと思われた。そこで,毎日学級通信(実際には私信)を毎日配布するすることで,生徒との交流ができたらと思った。学級通信は読む気がなければ読まなくてもすむものとして与えた。最初は,ごみ箱に捨てられることがあったが,"読ませる "ことはしたくなかった。読まれなくてもできるだけ毎日出すということで自分の気持ちを伝えようと思った。とにかく1日B4版1枚の通信をできるだけ多く出した。1984年度は1年間で200号だした。この通信は1983年から1987年まで続いた。
この通信で感じたことは,教育は,教師から生徒へ一方的に指導され,評価するものととらえられているが,大人である教師も生徒とともに学ぶことも大切だということである。評価し,指導する対象としての関係でなく,新しい世代の,物事や出来事に対するとらえ方の中に,自分自身が成長する材料も転がっているということである。他の教師に教えていただいたことよりも,生徒との関係の中で必要に迫られ学んだことは多い。学級通信を出していた頃,本校にアメリカから留学で来ていた高校生が「日本の教師は生徒に尊敬と服従を要求する」と言った。個人的な意見ではあるが,そのように感じさせるところが,日本の教育にあったのだと思う。
学級通信は,生き方に関したテーマが多かった。「生き方を選択する自由」「善と悪について」「浮浪者襲撃」「現代の性」などを扱った。テーマは本や新聞記事から探して,問題を取り上げた。その中から「高校生が結婚を理由に退学処分になった事件」,「教師との結婚」,「高校生は結婚できるか」などのテーマを取り上げ,LHRで題材にした。
そんな時,同僚の教師から自分が今までやってきた取り組みを性教育の実践としてまとめて報告してみないかと誘われた。性教育とは何なのかあまりよく把握していないままに,具体的に実践したことと,実践を通して学校教育に対して感じた問題点を発表することになった。1986 年の第17回日本性教育学会の全国大会でのことである9)。
この大会で,他の経験豊かな教師の発表や性教育の研究者の講演を聞き,性教育について初めて具体的に知る機会を得た。それまで性教育については,学校内の性教育委員会の係りのイメージしかなかった。当時,男性は積極的に係りになる教師はいないような状況であった。大会に参加して,性教育というのは人間の生き方に関係した教育なのだということが,おぼろげながらわかった気がした。自分なりに,後で雑誌や単行本,教師用の解説書で学んでいくうちに,性教育を生殖だけにかかわる教育としてとらえるのではなく,全人格,一生涯かかわっていく教育ととらえなければならないということがわかってきた。ちょうど,その頃は,生徒の性行動に対しても,今までは犯罪と同じように,"させない"ように取り締まる行為,つまり,「規制したり,補導したりする行為」としてとらえていたが,そのようにとらえるのではなく,性を大人に成長していく過程で重要な役割を担うものととらえる視点から「指導と助言が必要な行為」と考えなければならないという主張がされ始めた時期であった。