ホーム » 学校紹介 » グローバル教育 » 卒業生・保護者からのメッセージ
海外入試を受験してみて気付いたことは、日本のように一回きりの入学試験を受けるというスタイルではない、ということです。実際カナダの大学入試はTOEFLの結果と中学校、高校6年間の成績、ボランティアやスポーツなどでの成績を全て送って、総合的に合否の判断が下される、というものでした。
私は、清心中学校では主に陸上を中心に頑張っていました。高校に入ってから海外の大学への進学を考え始め、それまでにできるだけ英語力を伸ばしておきたいと思いスピーチコンテストなどに積極的に参加しました。
正直、私は優秀な生徒とはいえず、先生方には迷惑ばかりかけてしまったと思っています。しかしそんな私に先生方が6年間、厳しくも暖かく指導してくださったことは、もう一つの家のようだった清心学園を出てひとりになった今、とても大きな力になっています。そしてカトリックの精神を学んだことは自分にとって様々なことを考え直し、向き合うきっかけにもなりました。
私は4月からカナダへ来て、大学が始まる9月まで、自分の暮らす街をたくさん見て回りました。日本食レストランでの仕事も見つけることができ、大学の始まった今でも週末はそこで働いています。ケベック州はフランス語圏なのではじめは言葉が全く分からなくて不安でしたが、接客をしているおかげで今では随分上達しました。大学では世界中から集まった向学心のある仲間に囲まれて焦りもあるのですが、自分の好きなことを勉強するのはこんなに楽しいのだと気が付き、毎日とても充実しています。
大学生になれば、本当にひとりです。中学や高校のように、当たり前に挨拶してくれるクラスメイトも、いつも見守ってくれていて、間違っている時は叱ってくれる先生もいません。全て自分で考えて選び、自分の責任で行動して、居場所も友達も自分で見つけるしかありません。だから今、清心で学ぶ皆さんには、たくさんの人に守られているその状況を当たり前だと思わずに大切にして欲しいと感じます。そして、自分の進路を選ぶときは、たとえ与えられた道以外でも、やってみたいと思ったことは挑戦してみてください。みんなと同じことをしないというのは、その分寂しかったり大変だったりもします。だけど私は日本の大学に行かなかったことを後悔していないし、今自分の居る場所を誇りに思えます。
海外に留学するにおいて大切なことは、「どうにかなる」という気持ちを持つことだと思います。
私は2014年の春、高校を卒業し4月にアメリカ、ハワイ州にある大学に進学しました。
中学校、高校とNELPのプログラムに参加していたため、多少英語に自信はあったものの初日の講義から英語について行けず、学校が始まってから1カ月は教科書や配布されたプリント類の英単語を一つ一つ辞書で調べる、といったような日々が続いていました。
また、海外の大学ということもあり親の手をかりるわけにもいかず、様々な書類手続きや事務手続きを自分自身で責任をもって行わなければいかず、渡米してきた当初はとてもストレスフルな毎日を送っていました。
学校の生活に慣れてきた今、とても充実した日々を送っています。私の今現在在学している大学は、世界でも一番国際的な大学のひとつで、世界各国約80カ国から生徒が集っています。そのため、否応なしに他の伝統や異文化を身をもって体験する毎日を過ごしています。たった一つの講義の中でも、個人によって発言の有無や考え方の違い、教授への接し方の違いを感じます。また、寮の部屋をシェアしているルームメイトや、同じ仕事をしている同僚を通して生活習慣の違いや価値観の違いを感じます。何よりも大切なことはそれぞれの国の文化や伝統を完全に理解し、身につけようとするのではなく、お互いの違いをそのまま受け入れることだと学びました。
今、まわりの友達と宗教の違いや価値観の違いがあまりないため、妙な隔たりを感じることはないですが、留学を考えられているみなさんにとって一番の恐れは異文化に交じることが出来るかどうか、だと思います。もしそのような方がいれば是非、そのような考えは捨ててしまって「どうにかなる」、のだと、前向きな気持ちをもってください。もちろん、自分で精一杯努力しないかぎり結果がついてくることはないですが、努力を重ねることによって、自然と道が開けていくのだということを私は知っています。他の高校ではなかなか味わうことのできないであろう、清心での貴重な経験を、未来にむけてしっかりと役立ててください。
私は高校3年生の9月からカナダに留学しました。他の留学してきた先輩方や友達とは違い、語学留学ではなく、ずっと幼いころから習い続けていたバレエを海外で学びたいと思い、治安もいいカナダのバレエ学校に入学しました。
留学してから初めの方は、全く英語が理解できずに毎日がチャレンジでした。バスに乗るのも、生活用品を買うのも、当たり前ですがすべて英語で毎日辞書を片手に歩いていたのを覚えています。留学生活は朝から晩までバレエ漬けというものでした。バレエを学びたいという気持ちで留学したのでとても充実したものでしたが、英語不足で理解できないことがたくさんあって最初はとても苦労しました。
その後友達や先生方の助けもあり、だんだんと英語が理解できるようになり、異文化の人たちとコミュニケーションをとる楽しさを知りました。もともと清心で留学生や海外出身の先生方と接する機会が多く、異文化に触れることに興味もあったので、英語がだんだんと理解できるようになるにつれて、毎日が新しい発見で新鮮でした。
バレエ学校には卒業まで3年間留学し、卒業後はかねてからの目標だったバレエ団へ研修生として入団しました。それと同時に初めて海外での1人暮らしを始めました。海外で生活を始めて4年経ちましたが、今でも毎日が新しい発見です。もちろん大変なことも多いですが、毎日が貴重な時間で全てが宝物です。海外に出ることは最初は怖いと感じるかもしれませんが、日本を出て異文化に触れて、違う言葉を学ぶということは、大変だけど何にも代えがたい貴重な経験になることは間違いありません。
我が家にタイからの留学生がやってきたのは、2004年の3月でした。岡山に桜が咲く頃、まだ肌寒さを感じる日に、私たち家族は、岡山駅の新幹線ホームに立ち、これから家族の一員となる彼女を待っていました。
留学生を迎えるにあたって、家族会議をもち、それぞれの考え方や思いを出し合いました。言葉や文化の異なる人とどう暮らしていけばいいのか、健康で楽しく過ごしてくれるだろうか、留学生の手助けになることができるだろうか‥などの山のような不安が私たち家族にはありました。考えれば考えるほど、不安が増すばかりでしたが、自分の体験から、「子育て」というのは、理屈どおりにはいかないものです。私は、彼女を自分の子どものように接していくことで、数々の不安も乗り越えられるのではないかと考えを変えました。
しかし、私たちが考え込んでしまうほど不安は、彼女に会った瞬間にふきとんでしまいました。彼女は、心が張り裂けるような不安を抱え、1人、異国にやってきたのです。それにもかかわらず、彼女は不安や涙を隠すように、必死で私たち家族に笑顔を見せてくれました。私はその顔を見て、「知らない日本に来て、頼りになるのは、私たち家族だけなんだ‥」と彼女の母親になる覚悟をしたのです。
こうして、家族の一員となったサイとの生活が始まりました。毎日の学校生活、家庭生活に加え、日本文化の行事を体験させる機会を持ちました。
4月には、お弁当を持って、桜の木の下でお花見を楽しみました。このころのサイは、日本語はままならず、身振り手振りが中心でした。彼女は、桜の美しさの感激にしたようで、風に舞う花びらを追いかけたり、花びらを持って帰って、押し花を作ったりしました。
5月の母の日。花が大好きな私に、彼女は花束をプレゼントしてくれました。
夏休みには、家族旅行を計画し、東京ディズニーランドへ行きました。東京で仕事をしている長女も合流し、楽しい旅行となりました。この頃には、サイの日本語は上達し、普段の会話はスムーズにできるようになっていました。
秋には、次女の勤める岡山の児童養護施設の運動会や音楽会などの行事に参加しました。サイは小さい子どもが大好きな様子で、たくさんの子どもたちに囲まれ、抱っこをねだられていました。
お正月には、おせち料理を食べて、三女とサイの2人に振袖を着せ、記念撮影をしました。初めての振袖を身につけたサイは、とてもうれしそうな表情を見せてくれました。
こうしてあっという間に1年間は過ぎました。毎日のサイとの生活の中で、とても印象に残っている言葉があります。それは「ありがとう」という言葉です。
朝、最寄駅へ車で送っていった時に「お母さん、ありがとう。行ってきます」
夕方、駅に迎えに行くと「お母さん、ただいま。ありがとうございます」
サイはこの言葉をいつも言い続けてくれました。当たり前のことのようですが、私はこの彼女の言葉に新鮮さを覚え、とてもうれしく思いました。感謝を口に出来る人間関係は、親子でも必要だと教えられました。きっと、彼女が私たちの家族として暮らしてくれたことで、娘たちは感謝の言葉の重さを知ったことでしょう。
サイが我が家に来てくれたおかげで、家族の信頼関係は深まったように感じています。はじめは、不安ばかりが募っていましたが、彼女の笑顔とやさしさに支えられた1年でした。1年という期間は、長いように感じるかもしれません。しかし、お互いのことを深く理解するためには、必要な時間だと思います。
彼女がタイに帰国して1年が過ぎました。今でも時々、国際電話をかけあって、私たち親子の情を確かめ合っています。
最後に、私たち家族に、本当に幸せな時間をくれた彼女に心から感謝しています。
我が家で留学生と過ごした18日間は、かけがえのない国際文化交流となりました。生きた英語・アメリカ文化を肌で感じとれた日々でした。
以前、上の娘二人がニュージーランド研修に参加し、帰国した後に口をそろえて言った「楽しかった。良かった。」という言葉と、嬉しそうな笑顔を見ておりましたら、親として、他人の家族に、ましてや言葉の通じない外国で数週間もお世話になった事に感謝しておりました。その上「行って良かった。」という言葉を聞き、本当に貴重な体験をすることが出来たとも思っておりました。
そんなある日、学校から頂いてきた『ホストファミリー受け入れのお願い』のお便りを見ておりますと、末娘が「私、ホストファミリーしてみたい!」と申しました。その娘もニュージーランド研修を控え、上の娘同様、この子もまた他人のお宅でお世話になることに感謝をしていたところでしたので、「我が家でも何か恩返しができたなら・・・。」と、ホストファミリーをお受けしました。
しかしながら、お受けしたものの、日に日に「私は英語が話せない。どう接したらいいのかもわからない。ましてや食事の事なんて・・・。一体何を食べるのかしら。」と、些細なことではありますが、徐々に不安が増して参りました。ですが、娘達の「彼らは日本の文化、日本語を勉強にきているのだから、変に飾る事なんてないじゃない。いつものように、私たちに接するように自然にしたらいいのよ。」とのアドバイスを受け、「それはそうだ。」と安心をしました。
我が家の留学生は、背の高いハンサムボーイでした。彼は、英語の苦手な私のおかしな片言英語にも、嫌な顔一つせず相手をしてくれました。もちろん、日本語のやりとりにも積極的でした。例えば、「(お茶碗を指しながら)これは日本語で何と言うの?」のように、彼から聞いてくるのです。また、心配の一つであった食事の面に関しましても、お箸の扱いに悪戦苦闘しながらも、日本食も口に運んで頂き、大変うれしかったです。
また、生の英語を毎日耳にすることで、知らず知らずのうちにこちらも英会話を習っているようで、それまで別世界のものでしかなかった英語が、身近なものへと変わりました。さらには、留学生との交流の他に、同じくホストファミリーをされたご家族とも交流が持て、親同士の、学年を越えた繋がりも出来ました。
言葉は通じなくても、気持ちは通じます。気持ちさえ通じれば、他のことは問題ありません。
「他文化を知りたい。生の英語が聞いてみたい。」きっかけは、どんなに些細なものでもいいのです。「やってみたい」と少しでも思ったのであれば、是非とも経験なさってみてはいかがでしょうか。きっと、「貴重な一生の宝物」になることでしょう。
私は清心の交換留学制度を利用して、1999年、高校3年生の時に清心の姉妹校であるアメリカ・ネブラスカ州のブレア高校に1年間留学しました。もともと英語は得意であったものの、現地の生で触れ合う英語と私の英語は程遠いレベルのもので、始めはとても苦労しました。特に学校の授業は大変で、ノートをとることもままならないくらいでした。友達にノートを借りたり、ホストファミリーに勉強を手伝ってもらったりしてもらい、なんとかついていける状態でした。しかし半年ほど経った頃にはだんだんと慣れてきて、学校の授業もなんとかついていけるようになりました。留学中はブレア高校の吹奏楽や合唱に所属したり、生徒会で活動をしたり、校内新聞のスタッフの一人として記事を書いたりと、いろいろなことに挑戦しました。学外ではオーケストラや教会でバイオリンを演奏する機会もあり、とても充実した1年間でした。
そして日本に帰国し、清心を卒業。かねてよりアメリカの大学に進学を希望していた私は、またすぐにアメリカに戻り、州立ネブラスカ大学カーニー校に進学することにしました。アメリカの大学は日本と違い、入学前に学部や専攻を絞り込まなくてもいいので、自分のやりたいことを見極めるにはとてもよいシステムだと思います。私もやりたいことはあったものの、勉強を進めるうちに何か違うのではないかと思うようになり、途中で専攻を変更したりしました。そして最終的には音楽専攻に。もともと音楽が好きでもっと勉強してみたいと思ったのがきっかけでした。しかしバイオリンを始めて触ったのは中1の時、清心でのオーケストラ部の部活動のみ。正式にレッスンも受けたことがない私は、本当に音楽専攻でやっていけるのかと不安でいっぱいでした。しかし、素晴らしい先生たちとの出会いがあり、いろいろなチャンスを頂くことができました。アメリカの他大学や海外のアーティストのマスタークラスを受けたり、弦楽四重奏をやったり、大学のオーケストラではコンサートマスターを務めました。また、大学の留学生会みたいなものでも積極的にボランティア活動をしたりもしました。そして 2004年5月、大学を成績優秀者として卒業することができました。
その後は州立ネブラスカ大学オマハ校の大学院に進学し、ここでも音楽を専攻しました。やはり大学院ともなるとレポートの量も半端ではなく、1学期に50 ページ以上の論文を書くこともありました。プレゼンテーションも多く大変でしたが、自分のやりたい専門分野なので苦にはなりませんでした。そして大学院で一番大変だったのはリサイタル。演奏科は卒業までに1時間のプログラムで2回のリサイタルを開くことになっていて、2年の修士課程を1年半で終わらせる計画だった私は曲の練習と準備に大忙し。学内と学外合わせて3つのオーケストラを掛け持ちしていたので本当に大変でしたが、どちらのリサイタルも大成功。その後の学内コンクールでも特別賞をすることができました。中1と随分遅くにバイオリンを始めたこと、大学までレッスンも受けたことがなかったことは私にとってずっとコンプレックスでした。しかし、自分なりにここまでこれたこと、そしてとても満足できる結果を残すことができたことにとても感動しています。何事も頑張ればできないことはないと思います。
そして2005年12月に大学院修士課程を終え音楽修士号を取得した私は、現在アメリカで1年間の労働許可を得て、いろいろなことに挑戦しています。子供にバイオリンを教えたり、日本語の家庭教師をしたり、日本語補習校の幼稚園クラスのアシスタントをしたりと、毎日忙しいながらもとても充実した生活を送っています。12月で日本に帰国になりますが、日本でもいろいろなことに挑戦し続けていきたいと思います。今の私があるのもすべて清心からブレアに留学することができたから。あの1年がなかったら今の私はなかったと思います。清心の姉妹校交換留学制度を利用して、みなさんにもぜひいろいろな経験をしてもらいと思っています。
清心高等学校在学中、一年間アメリカに単位認定留学をさせていただいたので、清心で学んだ年月はみなより少なく、二年と短いものではありましたが、この清心で過ごした二年間と、一年間の留学体験は、その後の私の考え方、生き方、進路の決定に至るまで、自分自身の内面的なターニングポイントとなった事で大きな意味をもっています。
私の場合は少し変わっていて、高校が決まる前に留学に行く事が決定していたため、留学時の学校の対応とケアーに重きを置いて高校選びをしました。通常、全科目が必修科目である一年次に留学をする事が許可されていること自体稀であるに加え、単位認定留学を承諾してくださるのは清心を含め、ごく数えるほどしかなかったように覚えています。
留学中は、清心で出会ったかけがえのない友達をはじめ、校長先生や沢山の先生方から幾度も心温まるお便りをいただき、その度背中を押される思いがし、嬉しく読ませていただいていたことを良く覚えています。また滞在中に同時多発テロに遭遇し、世界には想像を絶する考え方や行動を正義とする宗教、文化が存在する事を再確認したのと同時に、これを題材にした討論会に参加し、改めて相互の隔絶した見解の相違をも実感しました。さらに、異なる意見を持つ人と協力して妥協できる意見を導き出す困難さも痛感しました。
この経験から、宗教、習慣、風習に至るまで相反する見解の者同士が、違いを無くそうと相手に同化を求めたり、自分が同化する事でもなく、それぞれが相違することを当然の事として受け入れる事、ありのままのお互いを認め尊重する事によって、双方の良い所を認め合い、異なる部分から学び合い共存していくには、まず私はどうすればよいのか、深く疑問に思うようになりました。第一に、より英語力を高め意思疎通に支障を来すことの無い様に勤める事。第二に、世界に暮らす様々な人々の事を、特に発展途上国に住む人々が直面している貧困、紛争、社会問題などをまずは把握する事。ここに早稲田大学国際教養学部で、そして当学部の魅力の一つである二年在学時の交換留学プログラムで、ロンドン大学SOAS(東洋アフリカ学学院)で問題解決の糸口をさぐる過程の一つとして、学術的に開発学や人類学を勉強している理由があります。
伝統と先進性が共存し、うまく融合したユニークな文化を持つ、多民族、多信仰のイギリスという国で、それを縮小したようなSOASには異文化や他者を肯定的に受け入れる環境があります。その世界に開かれた環境とチャンスを最大限にいかし、世界中にネットワークをすこしでも広げられたら、と日々過ごしています。最後に、この留学も終盤に差し掛かり、今強く実感しているのは、今回の留学は前回の留学があってからこそであり、またどこで何を勉強していようとも、私を根底から支え、私の糧になっているのは、清心で教えていただいた学ぶ事に対しての姿勢、「学ぶ事は権利ではなく特権であり、学べる事への感謝の気持ちを忘れてはいけない」という事に尽きると言えます。
韓国の文化の中に、語学院の日本人の間では「ケンチャナ精神」と呼ばれているものがあります。「ケンチャナ」とは韓国語で「大丈夫」という意味です。時間が遅れるなどして日本では「すみません」とか「大丈夫じゃないだろ」というような場面でも韓国では「大丈夫だよ」って感じですまされます。人の物は人の物、自分の物は自分の物という意識も日本ほど強くないように思います。上下関係はとても厳しいです。ご飯を食べる時、目上の人が食べる前に食べるのは失礼。「ご飯」を韓国では普通「パップ」と言うけど、目上の人に使う敬語として「チンジ」という言葉もあると授業で習ったときは本当にびっくりしました。韓国人はとても正直で情が深いと思います。あと、おおざっぱで適当な印象を受けるけど、一応大切なところはおさえて、やることはやっているように思います。
韓国人同士でしゃべっているその言葉だけを聞いていると少し怒っているように聞こえます。韓国語は似たような発音の言葉がたくさんあるので口をしっかりと開いてしゃべらないと微妙な発音の違いが聞き取れません。韓国語はハキハキとしゃべれて、しゃべっているととても気持ちよくて元気が出ます。
韓国の食事はキムチを始めとし、辛いものと味の濃いものが多いです。大体のお店で、物にもよるけど、おかわりが許されます。アイスクリームなど多めに入れてくれるなど、とても太っ腹です。
私は自然あふれる中にある7階建の寄宿舎に住んでいます。周りは山、山、山。色んな種類の花が咲いていて、とてもきれいです。寄宿舎から10分ぐらい歩くと学校があります。市内へはバスで15分くらい。寄宿舎内には色んな国籍の人がいてとても国際的です。
授業は2学期制で、初級から高級まで学べます。授業は9:00~1:00まで。1班から10班までが初級で各クラス15人くらい。クラスごとに一週間に3 人の韓国人の先生が交代で教えてくれます。先生は同じことを毎日、何回も言ってくれるので、先生の言っていることがだんだん聞き取れるようになります。韓国に来てもうすぐ3ヶ月になりますが、授業で習った文法を使って簡単な会話ができるようになりました。
次に行事についてご紹介します。文化研修では、韓国の伝統的な楽器、歌、踊りについて学び、体験します。民族遊戯では、韓国の遊びを体験します。(班対抗戦)語学院発表会では、各クラス準備した歌(韓国語)や踊りを披露します。韓国語のスピーチコンテストもあり、私はこれに出場して入賞しました。祝祭は付属大学のお祭りで、語学院の日本人で集まってうどんの屋台を出しました。
その他の活動としては、地元の農家で希望者のみ、梨のアルバイトを体験します。また、 ボランティア活動としては、これも希望者だけ、バスに乗って募金活動をします。「募金をしている学生です」と言うだけで大体のバスの運転手さんは無料で乗せてくれます。とても寛大です。
寄宿舎内の企画として、仮装パーティーがあります。民族衣装を着たり、男装、女装をしたり、それぞれ色々と考えて仮装します。日本人の中には電車男になりきっている人たちもいて、外国人にもうけがよかったです。後半では、それぞれの特技を披露する場もありました。全体を通して盛り上がり、とてもよい雰囲気でした。寄宿舎内でチームをつくったり、又はチーム構成を主催者側にまかせて、みんなでスポーツを楽しみます。
私のクラスには中国人が6人、日本人が4人、ベトナム人が2人、アルバニア人、アンゴラ人、ロシア人がそれぞれ1人いて、とても国際的なクラスです。とてもおもしろいクラスなのだけど、まだコミュニケーションの問題もあって、語学院発表会のための踊りを準備するのはとても大変でした。ある国の人にとっては普通のこと(行動、考え方など)でも、他の国の人にとっては受け入れがたいということが何度もありました。生まれ育った文化や価値観の違いは大きいなぁと感じました。それでも、みんなで1つのものを作り上げて、みんなで発表できた時はとてもうれしかったし、達成感がありました。
私は、清心中学校時代にキリスト教の授業で、アフリカやアジアの貧困の実態や、それを解決するために世界で働く人たちのビデオを何度か見たのがきっかけで、「将来は絶対、国際貢献できる仕事をしたい!」と思い続けてきました。その目標に1歩でも近づくために選んだのが、海外留学という道でした。少しでも早いうちに海外経験を豊かにし、そして国際語である英語の力をつけるためには、ここは留学しかない!と思ったからです。中3のニュージーランド研修で短い期間ながら、海外で英語で生活するという貴重な経験ができたことも、1年間の長期留学をする決心ができた理由のひとつになったのだと思います。そして高校2年生の夏から、清心の交流校である米国ウィスコンシン州のマーティン・ルーサー高校に1年間休学留学させていただきました。私立キリスト教ルーテル系でキリスト教の授業が必修、勉強も厳しい学校でした。最初の1~2ケ月間は授業の内容を理解することもほとんどできず、ついていくのがやっとという状態でしたが、清心女子高校を代表して派遣されているという自負と責任感のようなもので、自分でも驚くほど頑張って勉強した10ケ月間だったと思います。マーティン・ルーサー高校の生徒たちが、みんないい子ばかりで、ノートをコピーさせてくれたり、色々助けてくれたことも励みになりました。高校の中には、授業についていけないことがあれば相談に行ける教室などもあって、周りのみんながサポートしてくれていることも本当に心強く感じました。わたしを受け入れてくれたホストファミリーも、校長先生が直々に選考して決めてくださったので、甘やかしすぎもせず、でもきちんと面倒を見てくれるといった、いいファミリーでした。伝統的なアメリカの家庭といった雰囲気で本当に恵まれていたと思います。アメリカの学校の校内活動では、生徒が活躍できる機会がたくさんあります。私も、合唱の授業をとってNYにコンサートツアーに行ったり、校内ミュージカルでの伴奏メンバーになったり、部活として入ったチアリーディング部では後期副キャプテンまで務めさせていただいたりと、色んな場面で充実した時間を過ごさせてもらいました。さらに、マーティン・ルーサー高校には「service hour」といって、ひと学期に何時間か必ずボランティア活動をしなければいけないという制度がありました。そこで私は、通っていた教会の人たちと一緒に、ホームレスの人たちに昼ごはんをサービスするという活動をしました。それが、私の中の価値観をスパッと変えてくれるほど刺激のある、物凄くいい経験になったと思っています。帰国して1年もしないうちに大学受験が始まり、留学の経験を最大限に生かしました。そして無事、国立筑波大学に推薦で合格することができました。この留学経験を武器にすることが出来ていなければ、今の自分はいません。マーティン・ルーサー高校に留学させて頂けたことを、心から感謝しています。大学では国際総合学科で学び、夢の「国際貢献人」を目指します! また、マーティン・ルーサー高校で出会ったチアリーディングを、帰国後も岡山の社会人チームで続けてきましたが、大学ではそのチアリーディング部の立ち上げ活動も始めます。色々な分野で、留学中に得たものの影響は本当に大きく、それが私の将来へのスタート台になってくれたと言っても過言ではないと思います。私が帰国した夏からマーティン・ルーサー高校からの短期留学生が清心に来日するようになり、2校の交流はますます活発になりました。これからもマーティン・ルーサー高校と清心学園の交流が続いてくれたらいいなと願っています。