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苦悩は人間の「能力」の1つである

2024年6月 9日

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「うつうつと気がふさいで、何のために生きているかわからない。先行きのことを考えると、不安で不安でたまらない。何を見ても心が動かず、まったく意欲が湧いてこない
悩みや苦しみを抱えている状態というのは、居心地の悪いものです。この苦しみがなかったら、自分の人生はどんなにいいだろう。なぜ自分の人生は、こんなにもつらいものになってしまったのだろう。子供の頃は何の不安もなく、あんなに楽しかったのに。
 そんなふうに思って周囲を見渡せば、他の人はみな元気でいるのに、自分ひとりだけ人生に希望がないように思えて、ますます落ち込んでしまいます。
 しかし、じつはそのように見えるだけで、実際に何の悩みもない幸せいっぱいの人など、めったにいるものではありません。たいていの人は、何がしかの悩みを抱えています。むしろ、四十代も半ばを過ぎれば複雑な接めごとの渦中にあったり、愛する人を失ったショックから立ち直れずにいたり、自分自身が重い病気にかかっていたりと、解決の難しい状況にある人のほうが多いでしょう。まことに人間とは悩み多き生きものです。
 カウンセリングや心理療法の多くのアプローチでは、悩みや苦しみを取り除いていこうとします。それを解決してなくすことができるのならば、なくしてしまうほうがよいと考えるのです。
 それに対してフランクルの心理学では、人間が心の中に抱えるそうした「悩み」や「苦しみ」の持つ積極的な意義に着目します。この地球上で苦悩を感じることができるのは唯一人間だけであり、したがって「苦悩すること」は、人間の一つの「能力」である、と考えたのです。」(『フランクル・夜と霧』諸富祥彦著 NHK、p102-103)

 約150ページの本ですが、公園の椅子に座って一日で読んでしまいました。フランクルの著書『夜と霧』、『それでも人生にイエスという本を読んでいますが、この諸富氏の本には、『アンネの日記』のようにホロコーストの悲劇を描いた本と思い込んでいた『夜と霧』を手に取る機会を与えていただきました。
フランクルは、精神科医としての、自らの経験を冷静な分析し、伝えることを社会的な使命として考えていたのだと思います。多くの人の心を動かしたから名著として歴史に残ったのですね。

「フランクルを含めた被収容者が、過酷な状況を生きぬくために無感動、無感覚、無関心になったという話をしました。彼らはみな収容所の中で生きていくために無感情になり、嬉しくもなく、悲しくもなく、おかしくもなく、痛くもないという状態になっていきました。そうしなければ生きていけなかったからです。それは、いわば自分を守るための 「心の装甲」 でした。
 フランクルはそのことを、身をもって体験しました。彼もまた、収容所での暮らしの中で、死体を見ても盗みを見ても何も感じなくなる「感情の鈍麻」を味わったのです。
 はたして、苦悩を感じないのは、よいことでしょうか? そんなことはありません。心が揺れ動いたり、傷ついたり、悩み苦しんだり、涙したりするの自然なあり方なのです。これが人間としての自然なあり方なのです。」(『フランクル・夜と霧』諸富祥彦著 NHK、p104-105)

 過酷な理不尽な状況になると、人間は感情を失います。そうでなければ、心や体を破壊されてします。そうでないと自分が守れないからです。自己防衛の反応です。

「もしその苦しみに意味を見出すことができたなら、人間にとっては大きな救いとなる可能性がある、といえます。たとえば、「愛する家族を逃がすために、自分はおとりになってとらえられたのだ。だから、自分は今ここで苦しいが、それは愛する家族に安全なところで幸せに暮らしてもらうためなのだ」といったふうにです。意味に満ちた苦悩であれば、多くの人は耐えることができるのです。
 このことは、ストレス社会である現代を生きていくうえでも大きなヒントになります。
 たとえば、寝る間もなくフラフラになるほど仕事に追われていても、「これは自分にとって大切な仕事なのだ」と思うことができれば、それほど大きな苦しみにはなりません。あまりストレスにもなりません。ところが、「何のためにこんなことをしなければならないのか」と理由もわからない残務処理のようなものが山積みになっていると、たいへんなストレスになります。
「何かのための苦悩」であり「誰かのための苦悩」であること、これが苦悩の本質です。そこに人間がホモ・パティエンス(苦悩する人間)であることの理由もあります」(『フランクル・夜と霧』諸富祥彦著 NHK、p110-111)

 「何のための苦悩」なのか。意味づけされた苦悩であれば、人間は耐えることができるということだと思います。フランクルはこう言います。

「苦悩を志向できるためには、私は苦悩を超越しなければなりません。言い換えれば、苦悩を志向し、有意味に苦悩することができるのは、何かのため、誰かのために苦悩するときだけなのです。つまり、苦悩は、意味で満たされるためには、自己目的であってはならないのです。自己目的になった途端に、どんな苦悩への覚悟、犠牲への覚悟もすべてマゾヒズムに転化してしまうでしょう。意味に満ちた苦悩とは、「何々のための」苦悩なのです。私たちは苦悩を受容することによって、苦悩を志向するだけではなく苦悩を通り抜けて、苦悩と同一ではない何かを志向するのです。私たちは苦悩を超越するのです。」(『苦悩する人間』フランクル著・山田邦男・桧田美佳訳 春秋社、p137)

 苦悩を理解して、落ち着いて対応して、それを超越して生きていけるようになることが人間としての悟りで、実は身近で、達成可能な境地かもしれません。
 私自身は、自分のためだけ(自己目的)に生きるのでなく、「社会にいかにして貢献するか」を考えて生きることに苦悩解決の糸口があるわかっているものの、まだまだ自分勝手な煩悩があるので、日々反省して修正しているのが現状です。

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