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「そっと見守ってくれる」ような学校はないのかな。

2015年4月20日

一人の人間が、調和のとれた状態を常に保ちつつ、成長できるものであろうか。いつの時代でも、あとから見ると、大きなアンバランスがあったと判定され得るのではないか。
 第二次世界大戦後、日本の経済状態が険悪になり、幼児の中にさえ、世間の荒波をまともにかぶらねばならなかった者が少なくなかった。少年が、青年が、社会的関心を抱くようになったの.も当然である。
 それにくらべれば、私の少年時代などは、少なくとも私個人にとっては、平和なものだった。親のすねをかじっていれば、学校には行けた。学生のアルバイトなどというものは、存在しなかった時代である。もっとも、現代の一部のハイ・ティーンに見られるような風俗の原型は、当時もなかったわけではない。堅実な家庭の親たちは、彼らを「不良」と呼んだ。不良少年、不良青年などという言葉が、よく使われたが、余り深刻なひびきを帯びていなかった。三高の学生の中にだって、その程度の不艮はいたはずである。
 一方ではまた、自分たちの置かれている社会に対して、はげしい批判の目を向ける青年も、たしかにいた。
 彼らは、私よりはるかに大人であった。年齢的にいって、私は三高生の中の最年少ではあったが、性格的に見ても彼らは私より、社会に対する関心が強かったにちがいない。私の知らないことを、ずいぶん知っていたはずだ。私はそれをうらやましいとも思わなかった。私が、私のエネルギーをほとんど読書と、それにつながる思考の中にだけ注ぎこんだということは、たしかに人間としての成長過程では不調和なことであった。バランスのとれていない少年だった。この傾向は今も私の中に残っているが、私はそれを人間として立派なこととは思わない。が、もしこのアンバランスが私になかったら、どういうことになっていたろうか。私が物理学の研究者としては、割合早く一人前になれた理由の一つとして、この不調和な、かたよった人間形成が大いにカがあったのではなかろうか。
 私は少年期から青年期に移るころの自分を、その年齢なりに円満な、調和のとれた人間だったと思うことは出来ない。が、私自身にとっては、それはむしろ幸運であったといえよう.
湯川秀樹『旅人(湯川秀樹自伝)』角川文庫p150-151

 朝、学校にきて、傍らに置いてあった文庫本をパラパラとめくってみた。昔、聖書をパラパラとめくって、開いたページを読む習慣があった。偶然の中に自分自身に対する戒めやアドバイスを求めてやっていたのだと思う。今でも、このパラパラめくって、偶然遭遇したページを読んで、感慨に耽ることがある。上の文章を読んで、僕が考えたことは、今の学校なら優秀な生徒をほっておかないということだ。好きなことにじっく取り組むようなことはさせない。優秀な生徒には、目的(いい大学に入学する)に到達するために直接関係する勉強だけをすべきだと教えるのが善になってしまってるように感じる。そして、その価値観をいい大学に進学する状況でない生徒にまでおしつけるのだ。人間は心をもった生き物だということを忘れてしまっているのではないだろうか。
 本校のSSH事業で「生命科学コース」を開設したが、世俗的な宣伝(国公立大学に進学する生徒が多い等)がされているかも知れないが、私自身の提案の根っこには、「科学生徒が好きな生徒が高校生段階で好きなことに打ち込めるような環境を与えたい」という願いが込められていることを理解して欲しい。けっして科学研究での成果でAO入試を突破することでも、優秀な子だけ選抜して入試対策で優遇するために設定したのでもない。科学研究を楽しんでくれた生徒に自ら納得できる人生を見つけて欲しい、と10年経った今でも考えている。

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