野外彫刻美術館 |
分類1 |
分類2 |
分類3 |
注 |
市町村 |
設置場所 |
設置者 |
タイトル |
作者 |
設置年月日 |
人物 |
不明 |
不明 |
1人 |
広島市 |
公園 |
不明 |
ヒロシマの碑 |
不明 |
不明 |
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題:「ヒロシマの碑」 場所:広島市平和公園周辺 「人類と核兵器は共存できない.」という、ヒロシマの体験を、国境や時代を超え語り継ぐ 決意を示す「原爆犠牲・ヒロシマの碑 碑には、原爆瓦(かわら)がはめ込まれ、全国の子どもたちから寄せられた64の文案の中から「天がまっかに燃えたとき、わたしのからだはとかされた.ヒロシマの叫びを、ともに、世界の人よ.」という文が選ばれ、彫り込まれている. 製作者 不明 材質 銅 設置年 不明 所在地 |
分類1 |
分類2 |
分類3 |
注 |
市町村 |
設置場所 |
設置者 |
タイトル |
作者 |
設置年月日 |
人物 |
混性 |
着衣 |
母子 |
広島市 |
公園 |
不明 |
平和記念像 |
不明 |
1977 |
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題:「平和記念像」
」 場所:平和公園内 平和記念像 平和公園慰霊碑北の、木立の中にあるこの像は、広島平和記念像建立協会が建てた. 募金を呼びかけたがなかなか目標に達せず、約10数年余りかかったらしい. 三日月の上にたっている母と子の像が、平和を象徴しているように感じられる. 製作者 不明 材質 不明 設置年 1977年 所在地 平和公園内 |
分類1 |
分類2 |
分類3 |
注 |
市町村 |
設置場所 |
設置者 |
タイトル |
作者 |
設置年月日 |
人物 |
子 |
裸 |
鳥・子 |
広島市 |
公園 |
不明 |
原爆の子の像 |
不明 |
1958 |
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題:「原爆の子の像」 場所:平和記念公園内 原爆の子の像 2才で被爆して、10年後に白血病でなくなった佐々木禎子さんな死をきっかけに、 中学生たちが取り組んで建設した像。佐々木禎子さんが元気になると信じて折っていたつるは、 その後、被爆者のシンボルとなり、高まるヨーロッパの核廃絶運動の中で、 「被爆者にはならい」決意表明として、「ノーユロシマ」シンボルとなった。 像の下には、「誓いの言葉の一部が黒御影石に、刻み込まれている。 「これは僕らのびです。これはわたしたちの祈りです。世界に平和を築くための。」 製作者 不明 材質 不明 設置年 1958年 所在地 平和記念公園内 |
分類1 |
分類2 |
分類3 |
注 |
市町村 |
設置場所 |
設置者 |
タイトル |
作者 |
設置年月日 |
人物 |
混性 |
着衣 |
大人1人子2人 |
広島市 |
公園 |
不明 |
原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑 |
不明 |
1970 |
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題:「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」 場所:平和公園内 原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑 この碑の裏には、身元が判明した死没者の名簿を納めた扉に、 「太き骨は先生ならむそのそばに小さきあたまの骨あつまれり」という正田篠枝の短歌が 刻まれている。また、建てるにあたって、被爆者を中心とした教師たちは、「あの熱い炎の中で、 互いに抱き合い、助け合い、呼び合い、そして、力つきて、ともに集まり燃え尽きていった 師弟たち。その白骨のなかに限りない生命の声をききとり、これを互いに継承しなければ いけないと考えます。」と呼びかけた。 製作者 不明 材質 不明 設置年 1970年 所在地 平和公園内 |
分類1 |
分類2 |
分類3 |
注 |
市町村 |
設置場所 |
設置者 |
タイトル |
作者 |
設置年月日 |
人物 |
混性 |
裸 |
母子 |
広島市 |
公園 |
不明 |
嵐の中の母子像 |
不明 |
1960 |
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題:「嵐の中の母子像」 場所:原爆資料館前 1959年、第五回原水爆禁世界大会が広島で開かれたとき、有名な彫刻家本郷新氏作の この像の原型が日本原水協を通じて広島市長に贈られた。 この像題に含まれている「嵐」には2つのことが込められている。1つめは、 原爆の「嵐」から子供を守る母、その母に必死にしがみつく幼子。2つめは、前年の 第四回原水爆禁止世界大会を機に表面化し始めた最初の分裂策動を乗り切るようにとの 励ましだ。 一人の母親が幼い子どもを胸に抱き、もう一方の手で幼子をかばっている姿は 大人から、子供までに感銘を与える。 製作者 不明 材質 不明 設置年 1960年 所在地 原爆資料館前 |